イスラエルとイランの大規模軍事衝突「12日間戦争」に遭遇した、イランの首都テヘラン日本人学校の西田隆之校長(60)=兵庫県丹波市=が、外務省の避難勧告に従って帰国、自宅に戻った。軍事的緊張の高まりを感じる間もなく、生活圏にまで及んだミサイル攻撃に「感じたことがない生命の危険を感じた。まさかここまでエスカレートするとは」と絶句。「戦争を望むイラン人はいなかった」と、情勢が落ち着き、テヘランで学校が再開できるよう願っている。
インド料理店で同僚と中間考査の打ち上げ後、自宅で眠っていた13日午前3時ごろ、「ドン」と低い音で目が覚めた。30分ほどして電話が鳴った。在イラン日本国大使館からだった。「ミサイルが撃ち込まれた。先生方の安否確認を」と告げられた。この時は「またか」と思った。攻撃前に事前通告があることが多く、標的は軍需工場や政府機関。ピンポイントで爆撃された。「一般居住エリアをイスラエルは攻撃しない」とちまたで言われ、イスラエル兵器の精度が信用されてもいた。学校や教師の住居は、各国大使館に比較的近い〝安全地帯〟。市内のどこかが局地的に攻撃されても「対岸の火事」だった。これまでは。
夜が明け、未明の攻撃でイラン・イスラム革命防衛隊のサラミ総司令官が殺害されたと知った。自宅から西へ3・5キロの位置。これまでにない〝近さ〟だった。
14日にイランが報復。交戦状態になった。避難せず、オンラインで授業を続け沈静化を待つと判断。「子どもに心の安定が必要と考えた。保護者に継続は喜ばれたと思う。派遣教員の保護者にどう思われたかは…」
15日の朝礼で、全校児童生徒に注意した。「爆風で割れたガラスでけがをすることがある。窓から離れて授業を受けましょう」。丹波市内の小学校の「Jアラート」発令時の対応を参考にした。
6時間目の授業中のミサイル攻撃で、一部の教師が授業を打ち切った。この日、遠く離れた石油関連施設が爆撃された。黒煙が、澄み渡るイランの青空をどんより曇らせる様が自宅から見えた。窓を閉め、マスクをするよう注意喚起があった。
夜に職員会議を開き、「学校運営を続けられる状況にない」と教師に帰国を告げ、PTA会長ら関係各所に伝えた。
攻撃は夜に増えた。「ドィン、ドィン」と、遠くで聞こえていたイスラエルのミサイルを撃ち落とすイランの対空砲の発射音が、はっきり聞こえた。明らかに前日より近くから音がし、恐怖心が増した。迎撃成功のたびに生じる閃光を撮影する余裕はなくなった。「イスラエルは軍事施設を狙う。この対空砲が狙われたら」と、それまで考えなかった不安がよぎった。救急車のサイレンが頻繁に鳴っていた。
16日に文部科学省に帰国を伝えた。空路は封鎖。陸路でイランの北、アゼルバイジャンに出国することになった。イラン軍からの情報を元に、大使館からミサイルで狙われるエリアの情報が入った。該当エリアに住んでいる女性教師に避難を指示。女性教師から、避難先近くの国営放送が黒煙を上げる写真が届いた。水を大切にする国で生命線の水道施設が攻撃された。破壊が市民生活に及んだ。
外務省は激しくなる戦況を受け17日、イラン全土に退避勧告を出した。同日午後3時半ごろ、外務省から届いたメールに「19日に出国するバスに乗車を希望する場合は、午前零時までにビザ取得が必要」と書いてあった。猶予は数時間。事態は切迫していた。
出国前最後の18日は午前中の短縮授業。小学1・2年生複式学級の算数を教えた。午後3時に日本大使館に入り、前泊。大使館から日本の家族に連絡しようとしたが不通。イランが通信を遮断し、ネットが使えなくなっていた。現地スタッフがおびえていた。
19日午前7時にバス2台で大使館前を出発し、1時間弱でテヘラン市内を脱出。危険地帯から脱した安堵感に包まれた。アゼルバイジャン国境で出国審査に5時間かかるなど長時間を要したが、出発からおよそ20時間かかって首都バクーに着いた。大使館員の子も同じバスで避難し、「教師が先に避難する」後ろめたさを感じずに済んだのは幸いだった。
市民は郊外へ避難し、1000万人が暮らすテヘラン市は静まりかえっていた。18日まで、自宅マンション前のコンビニエンスストアは開いていた。花や木に水をやる公園の管理人、工事現場で働く人、ごみ収集をする人らは避難せず市内にとどまっていた。日本人学校の警備員には、出勤した分の給与を支払うと約束した。貧富の差が、命に如実に関係している不条理を感じた。
帰国した翌日からオンライン授業を再開した。日本時間の午後4時、現地時間の朝10時半に現地スタッフとオンライン会議をし、最新情報を得る。「くれぐれも気をつけて」と声をかける。
いつ戻れるか分からない。現地の情勢次第だ。定年まで2年を残し、中央小校長を早期退職。海外派遣教員に転じた。テヘランは教師生活最後の赴任地。任期満了は来年3月。長期退避を覚悟し礼服を持ち帰ったが、できることならテヘランで卒業式をと望んでいる。
「誰もが争いがなく安全に暮らしたいと願っていた」。戦争を腹立たしく思う。「平和的な解決をリードする国がなかった。イラン人はそうした国を求めていた。日本がその役割を担えていないことが残念」とも。
今回の戦争で、市民に新たな犠牲者が出た。「新たな憎しみが生まれたのは事実。こうして戦争は負の連鎖をつくっていく。人の力で心をねじ伏せることは決してできない。相互に歩み寄るための対話こそが重要」との思いを改めて強くした。