太平洋戦争中、兵庫県丹波市氷上町新郷の赤井野原野にあったグライダー(滑空機)訓練所。昭和16、17年ごろの中心的な滑空訓練の対象者は、20歳以下の青年や旧制中学校の高学年だった。氷上郡(現丹波市)内の青年学校や旧制柏原中が赤井野で訓練をした。青年学校の滑空指導者の講習会も開かれ、2週間の合宿で、氷上郡、多紀郡(現篠山市)などの青年学校職員が学んだ。
16歳青年「楽しいくらいの思い出」
昭和18年8月1―3日、赤井野で氷上郡柏原町などによる組合立「柏原中央青年学校」が開いた滑空訓練。16歳の夏、同教練に参加した上田嘉平治さん(92)=柏原町=は「楽しいくらいの思い出」と、思い出し笑いをする。
機体に乗る前に、教官役の教師に名前と練習科目、体重を報告した。「仲間に『体重を5トンと言え』とささやかれてその通り言ったやつがおった。先生が『アホか』とわろとっちゃった(笑われていた)」。
教師が手本を見せてくれた。上田さんらがゴム索を力の限り引っ張った機体ははるか頭上を飛んだ。講習で教師は生徒より高高度の「5メートル」を訓練していた。「シャツがはためくのが格好良かった」。
航空訓練班は週1回、15日間の訓練
この頃、青年学校生の希望者でつくる「航空訓練班」が組織化された。班員は、同時に大日本航空青少年隊の隊員「兵庫縣氷上郡航空青少年隊」の隊員になった。
昭和17年2月12日付の「兵庫縣報」号外に、訓練内容がある。県学務部長から青年学校長らへの通牒はこうだ。「文部省滑空訓練教程に準拠して隊員に滑空訓練を施し概ね高度三米直線滑空機操縦技量を得しむる外適性者に対しては更に高度の科目を課す」。
班員の対象は16―20歳。訓練は週1回1日程度で15日間。雨天の場合に行う「学課」も含め各日の予定が細かに示されている。「地上滑走」は浮かずに地上を滑る。「高度一米跳躍」「三米跳躍」は、操縦桿を微妙に引き、所定の高さまで山なりに浮く。
上田さんと同じ日に練成訓練に参加していた一学年上の片山英夫さん(94)=柏原町=は、さらに上級の訓練を受けた。操縦席がむき出しの初級機でなく、「セコンダリー」(中級機)という操縦席に覆いがついた機体を操縦した。赤井野で中級機に乗る技術を持つ訓練生は稀だった。「20、30、50メートル高地」と、初級機とは訓練高度が違った。青年学校の教師でなく、専任の教官がいた。
「ゴム索を引っ張る要員がたくさんいた。滞空時間は初級機より長かったが、真っ直ぐ飛ぶだけ。着陸した時に機体が草の上を滑るザーッという音が長い間したのを覚えている」。
人力でゴム索を引いて木製の機体を飛ばす初期滑空訓練は、日中戦争で初めて近代的航空戦を経験し、航空兵養成の必要性を痛感した軍の働きかけで全国的に拡大した。将来、青少年を飛行機搭乗員にの思惑があった。滑空機は燃料が不要で飛行機より安価。機体を飛ばすのに20人ほどの人員が必要で団体訓練に適していた。