兵庫県丹波篠山市にある「雲部車塚(くもべくるまづか)古墳」は、ユネスコの世界文化遺産登録の見通しで注目が集まる「大山(だいせん)古墳」(堺市)と同じ大型の前方後円墳。大山古墳は、仁徳天皇陵と伝わるが、雲部車塚古墳は、被葬者を特定できないものの皇族の可能性があるとされる「陵墓参考地」の1つ。通常、陵墓や陵墓参考地は学術的な立ち入りがほとんど行われていないが、この雲部車塚古墳、明治時代になんと「村人」によって発掘されたことがある。この時見つかった副葬品の一部が京都大学総合博物館に保管され、貴重な研究資料となっている。村人による発掘、そして、宮内庁管理の陵墓参考地となるまでには、時代を背景にした数奇なドラマがあった。
明治時代に村人たちが石室発掘
雲部車塚古墳は、兵庫県内で2番目に大きい前方後円墳。墳丘の長さは158メートルあり、周囲は濠で囲まれている。
発掘が行われたのは明治29年(1896)5月19日。地元の有力者・波部本次郎、雲部村の村長・木戸勇助、丹波篠山出身の考古学者・八木奘三郎の3人が車塚を訪れ、八木が「これは2000年前のものであり、天皇か皇族方の墓だろう」と言ったことがきっかけとなり、木戸らは「皇族方の墳墓ならば、車塚を農地に使っているのは不敬な行為にあたる。皇族の墓かどうか確かめよう」と掘ってみることにした。
村人80人あまりが、大くわやつるはしを手に大騒ぎしながら掘り進めたところ、石室や石棺が見つかった。赤く塗られた石室の壁には刀剣やほこがずらりとかかり、よろいなどが床に置かれていた。長持形の石棺は、当時最高ランクの石でつくられたもので、被葬者の権力の大きさをうかがわせた。
この成果に、村人たちは大喜び。狂喜乱舞し、代わる代わる石室の中に入ったという。いわば、興味本位で古墳が”あばかれた”ことにより、残さなければならない価値あるものだと確認されたのだった。
その後、柵を立てて保護しつつ、警察官や宮内省の役人らが何度も調査。明治31年(1898)、木戸村長が単身上京し、宮内省の役人に意見具申を重ねた結果、陵墓参考地への指定が決まった。
明治33年(1900)、それまで村人が所有していた土地を国が買い上げ、陵墓参考地となった。その背景には、古墳の保存を強く望む学識者の意見があった。京都大学総長・木下廣次は、明治32年(1899)1月11日、貴族院において「墳墓保存ノ建議案」を提案。このころ、多くの墳墓が民有地となり、破壊が進んでいたことから、皇室に関係があると推測される墳墓をまずは国費で買収して保存し、その後考証を進めるよう提案したのだった。
雲部車塚古墳の発掘時に取り出された副葬品の一部は、木下総長とのつながりにより、地元から京都大学に移管され、今も同大学総合博物館で大切に保存されている。
雲部車塚古墳は、江戸時代には濠が埋められ、牛や馬の放牧地として村共有で使われていた。他地域をみると、大型の前方後円墳であっても、時代の流れのなかで保存されなかったケースもある。丹波篠山市文化財保護審議会委員の池田正男さんは、「陵墓参考地になっていなければ、おそらく盗掘されたり、壊されていただろう。車塚は、数奇な運命で守られた幸運な古墳だ」と話す。
ところで、この巨大な古墳に眠っているのは誰なのか。陵墓参考地への指定では、丹波に派遣された皇族で、四道将軍の一人、「丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)」の墓という説がとられたが、5世紀半ばごろに築造された車塚とは、年代にずれがあるようだ。
ただ、古墳や棺の形などが、大王(おおきみ)の墓と共通していることから、ヤマト王権の有力者の墓ではないかと考えられている。
全国に皇室関係の「陵墓」は、歴代天皇・皇后の陵(みささぎ)188、皇族らの墓555などがある。伝承などから陵墓の可能性があるとされる「陵墓参考地」は46ある。