京都府と兵庫県にまたがる旧丹波国。今でこそ黒大豆などをはじめとする食の宝庫として知られる丹波だが、昔は「駆け落ちの里」として知られていた。
「丹波越え」という言葉が、かつて駆け落ちの里であったことの証だ。広辞苑(第5版)によると、「丹波越え」について「京都から丹波国に向けて山を越えること。転じて、かけおち。逃亡」とある。
命かけた2人、井原や近松も題材に
丹波の中でも、京の都から遠く、「奥丹波」に位置する兵庫県丹波市柏原町には、不義密通の罪で刑場の露と消えた男女をまつっている祠がある。その祠は山裾にひっそりとたたずみ、祠のある所は「おさんの森」と呼ばれている。ここにまつられているのは、おさんという女性と茂兵衛という男性。
時は江戸時代。京の大経師(暦屋)の妻、おさんと手代の茂兵衛が男と女の深い仲となった。今ならば、その仲は不倫として世間的に指弾される程度で済むのだろうが、当時は、不義密通として死罪となった。
この2人が命の危険におびえながら逃げてきたのが丹波の国の柏原だった。そして2人は、この「おさんの森」がある所で追っ手に捕まり、刑場に引き出されたと伝えられている。
おさん・茂兵衛の悲恋は人々の間でセンセーショナルな話題になったのだろう。2人の恋の末路を題材に、近松門左衛門は『大経師昔暦』を書き、井原西鶴は『好色五人女』の巻三を書いた。
『大経師昔暦』はのちに、長谷川一夫や香川京子の主演で映画化もされた。西鶴の『好色五人女』には、「丹波越えの身となりて」という記述があり、2人が駆け落ちする身となったことを表現している。
歌人も人妻と身を潜める
地元には、この「おさんの森」について、「この森まで来て、気が緩んだのか、隠れていたおさんが咳をしたため追っ手に捕らえられた」と伝わっている。このためか、「咳の神様」として昔から信仰されていたが、近年では、「恋の神様」として親しまれるようになった。
死の覚悟で結ばれない恋にひた走った2人は黄泉の国から、恋に迷う現世の人々をあたたかく応援しているかもしれない。
丹波市には、おさん・茂兵衛のほかにも、世間から後ろ指をさされた恋人ゆかりの地がある。年が25歳ほど離れていた人妻と恋仲になり、「老いらくの恋」として当時、巷間の注目を集めた歌人の川田順が、太平洋戦争の戦時中の一時期、その人妻と身を潜めていたと伝わる寺がある。