氷河時代、日本に生息し、約2万年前ごろに絶滅したとされる「ナウマンゾウ」。20数年前、兵庫県丹波市春日町の「七日市(なぬかいち)遺跡」を調査した兵庫県教育委員会の研究者らは、瀬戸内海と日本海を結ぶ低地帯「氷上(ひかみ)回廊」がナウマンゾウの群れの通り道だったと推察し、七日市遺跡は「ゾウ狩りのキャンプ地だったのでは」との仮説を立てた。今も仮説の域ではあるが、本州一低い中央分水界を有する氷上回廊とナウマンゾウをめぐるストーリーはダイナミックだ。
本州一低い中央分水界
兵庫県丹波市(旧丹波国氷上郡)を中心とする「氷上回廊」は、高い山を越えることなしに、日本海から瀬戸内海へと抜けることができる低地帯。由良川と加古川を結ぶルートだ。
同市氷上町石生の「水分れ(みわかれ)」周辺は、日本列島を背骨のように通っている高い山脈が、本州で唯一とぎれている区間(1250メートル)で、標高わずか95メートルの本州一低い中央分水界という特殊な自然地形を生み出している。
兵庫県教委の研究者らは、こうした環境に着目し、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が、かつては陸地だった瀬戸内海側から、日本海側へ、このルートを通って季節移動したのではないか―と考えた。
沼地に追い込んで狩り?
この「水分れ」から東へ約6キロ離れた場所に、丹波市春日町の七日市遺跡はある。水分れと七日市遺跡の間に広い沼地があったことから、研究者たちは、氷上回廊を通るナウマンゾウの群れをこの沼地に追い込んで仕留めたのではないかと推察した。また、大型動物の狩猟・解体に使ったのではとされる「局部磨製石斧」(きょくぶませいせきふ)が、七日市遺跡から大量に見つかっていることも、狩猟キャンプ地説の根拠の一つになっている。
ある秋の終わり、北の日本海側から南の瀬戸内海側へと移動するナウマンゾウの群れを狙い、旧石器人たちが近畿各地から七日市遺跡に集まってきた―。
大昔、こんな風景があったのだろうか。大きなナウマンゾウを相手にするのは、知恵とチームワークが必要だっただろう。七日市遺跡では、家族たちが帰りを待っていたのだろうか。
日本中にいた「ナウマンゾウ」
「ナウマンゾウ」は、1882年、日本で発見されたゾウの化石を初めて世界に紹介した明治政府の“お雇い外国人”で、東京大学の最初の地質学教授となったドイツ人のエドモンド・ナウマンにちなんで名付けられた。
旧石器時代には北海道から九州にかけてナウマンゾウが生息しており、瀬戸内海の海底からは数千個もの化石が底引き網で引き揚げられている。
ナウマンゾウ絶滅の原因は、環境変動ではないかと言われているが、はっきりとは分かっていない。そのような大きな変化があったとすれば、同時代を生きた旧石器人たちも、大変な苦労をしたのではないだろうか。