平安時代末期に始まったとされる兵庫県篠山市今田町の丹波焼。800年以上の歴史にはさまざまな出来事があった。人々の生活に寄り添う焼き物だが、戦時中には戦争がその影を落とし、軍部の命令で地雷の容器を作っていたという歴史がある。「昭和」が遠ざかり、さらに「平成」が終わろうとしている今だが、その容器は戦争の“証人”としてひっそりと篠山市今田支所で保管されている。
丹波焼は、信楽焼や備前焼などと並ぶ「日本六古窯」の一つで、民藝運動を展開した柳宗悦が高く評価したことでも知られている。
産地の今田町には今、50軒を超える窯元がおり、伝統の技を引き継いでいる。2017年4月には、六古窯の産地の一つとして、同市が日本遺産にも認定される要因となった。
地雷の容器は、1990年(平成2)に見つかった。「今田町史」を編さんしていた関係者らが今田町下立杭の登り窯跡で発見した。
直径約22センチ、高さ約10センチの扁平筒状の形。上部に約4センチの穴が開けられ、この穴から火薬を詰めて雷管に接続する仕組みになっている。
1937年(昭和12)に日中戦争が始まると、戦時色は次第に丹波焼の産地にも及んだ。陶器は耐酸性が高いことから、陸軍省や化学工業会社からの需要があり、硫酸びんが大量に生産されるなど、軍用製品が主流になった。
さらに太平洋戦争末期になると、本土決戦に備えて地雷の容器を作るようになり、軍需工場の一翼を担うことになった。
地雷容器の生産には勤労動員学徒や女子も駆り出されたが、兵器として使う前に敗戦になったという。
敗戦後、進駐軍に見つかれば危ないということで廃棄処分になった。しかし、廃棄されずに残ったものがあり、敗戦から45年後、姿を現した。
篠山市今田支所には3個の地雷容器が資料室に保管されており、希望すると見ることができる。