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かつて食糧難解消の「口減らし」を目的に、年老いて働けなくなった老人を山に遺棄していたという、日本各地で語り継がれている「姥捨て山(うばすてやま)」の伝承。兵庫県篠山市の集落「見内(みうち)」にも、老人を生きたまま棺桶に入れて、集落の裏山の尾根「ガンコガシ」から谷底に向けて投げ落としていたという歴史秘話が今も住民の間に伝わる。一方、この伝承を研究している同市古市の宗玄寺住職、酒井勝彦さん(75)は、「姥捨て山」の存在を否定する。その根拠を尋ねた。
神社を守護する人々の村
「姥捨て山」の伝承が残る見内は、松尾山(687メートル)を背にする袋小路の村。見内では「ガンコガシ」、その周辺の集落では「ガンコカシ」「ガンコロガシ」などと呼んでいる。「ガン」は漢字で「龕」と書き、遺体を納める棺や輿を意味するという。
生まれも育ちも見内というKさん(74)は、年老いて農作業ができなくなると、村の若者数人がその老人を棺桶に入れ、ガンコガシに投げ落としたという話を村の古老から聞いた。勢いよく斜面を転がり落ち、亡くなるか、瀕死になった老人を再び担いで尾根伝いの先にある高仙寺の阿弥陀堂(堂屋敷)まで運び、そこで埋葬したという。
酒井さんによると、この村は延喜式内社である「二村神社」の神事をつとめ、守護する者たちで形成されたという。集落の規模は昔も今もほとんど変化することなく、3月末現在で17世帯。
二村神社は集落の出入り口にまつられており、創祀は不明。当初、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の2神がまつられていたことから「二尊神社」と称し、見内も古来は「神内」と称した。1482年に「御内」、1651年に「見内」と名を変え、現在に至る。
神社にはこんな神話が伝わっている。2神が天下るとき、最初に剣を落とし、次にニワトリを降ろした。「剣が地面に突き刺さっておればやわらかい土地なので鳴かず、突き刺さらずに倒れていたら鳴け」とニワトリに命じた。剣は倒れていたので、ニワトリは大きな声で鳴いて知らせた。「この土地は固く、神の住める場所である」と、この地を神内村と名付け、降り立ったという。2神の降臨について大役を果たしたニワトリを神の使者として崇め、第二次世界大戦が終わるころまで、村内ではニワトリを飼わず、また鶏肉を一切口にしなかったとされる。
目上敬う儒教浸透の時代
見内の姥捨て伝承を否定している酒井さんは、「見内は格式高い社を守護する村で、口減らしをしてまで食糧難をしのがないといけないほどの貧しい村ではなかった」と話す。
さらに「儒教の考えに基づき、唐の時代の中国でつくられた親孝行の模範となる話をまとめた書物に『二十四孝(にじゅうしこう)』がある。その話の一つに、母を養うために自分の子を口減らししようとした『郭巨(かくきょ)』の物語があり、そのひとコマをあらわした彫刻が全国はもとより、市内の寺の欄間などでみられる。目上の者を敬う儒教の教えが浸透していた時代に親を殺す、口減らしするという考えはなかったはず」と力を込める。
墓は今も隣の集落に
見内が含まれる旧丹南町が編さんした「丹南町史」の中に、1794年(寛政6)に編さんされた「丹波志」を出典元に、見内の歴史を紹介した記述がある。
それには「『見内村に人死するときは住山村の山谷に送る。その地に堂屋敷と呼ぶ古跡あり。(中略)正保年中(1644―48年)より死者は波賀野村へ送る』とあり、見内は神域のため墓地をつくることができなかったようである。今も見内から高仙寺跡に登る寺坂に、焼香場という地名が残り、老人を住山のガンコガシに送った伝承を残している」と書かれている。
「見内は式内社を有しているため村内を神域とし、『死穢(しえ)』については敏感すぎるほどのしきたりを課せられていたと考える。このことから村内に死者を埋葬することはできなかった。現在も一部の住民の『詣(まい)り墓』はあっても納骨や遺体を埋める『埋(い)け墓』はなく、今でも集落の墓地は約2キロ離れた隣の集落の波賀野にある」と酒井さん。
「今でこそ見内で亡くなられた方のご遺体は神社のそばを通って葬儀場や火葬場に向かうが、当時は二村神社のそばを通ることは許されなかった。しかし、神社は村の”喉首”に鎮座しているので、裏山にあたる松尾山の阿弥陀堂(堂屋敷)にまで葬送し、弔う必要があった」と話す。
誤って棺桶谷底に?
また、「ここからは私の推測だが」と前置きした上で、「阿弥陀堂へ向かう途中、切り立った尾根道『ガンコガシ』がある。若い衆でも棺桶を背負って歩いていると、時には足を滑らせ、棺桶を谷底に落としてしまったこともあっただろう。『棺桶を谷に落としてしまった』ということになれば、いくら何でも言い訳が付きにくい。村人たちはだれ言うとなく、『ここは棺桶が落ちる場所』という共通認識を持つことによって、若者の責任が回避できる道を用意したのでは」とした。
食糧それなり 口減らしの必要疑問視
酒井さんは1852年(嘉永5)に書かれた「多紀郡明細記」から、見内のコメの収穫量などに関する記述を見つけた。それによると、見内村の規模は14軒、男39人、女37人、牛7頭とあり、村のコメの総収穫基本量は69石1斗1升とある。
当時の年貢米の税額は収量の50・5%で、いわゆる「五公五民」という篠山藩において平均的な税率。年貢を差し引いたコメの量は約34石で、平均5・4人暮らしだった1軒に対して約2石4斗4升(2440合)となる。
酒井さんは、「決して十分な量とは言えないが、山や川の恵みを加えると、食べ物に困窮するほどではない。また、2軒で1頭の牛が飼育できていることを考えると、貧農の村であったとはいえない。さらには日々、神を意識しながら暮らしていた人たちが口減らしを行うことは考えられない。見内村の古文書にも『姥捨て』に関する記載は見られない。誤って棺桶を落としてしまった話を村の中で言い伝えているうちに尾ひれがつき、やがて『姥捨て』の話へと変化したのではないか」と結んだ。
姥捨ての風習は実際にあったのか、なかったのか。今となっては誰もわからない。