1万円札の肖像画に採用されることになった渋沢栄一。「近代日本経済の父」として名を残す一方、教育にも熱心に取り組み、日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立と運営に多大な貢献をした。昭和6年(1931)4月に日本女子大学校の3代目校長に就任し、その年の11月に91歳で亡くなった。その跡を継ぎ、4代目校長となったのは、人気を博したNHK朝ドラ「あさが来た」のモデルになった女性実業家の広岡浅子に娘のようにかわいがられた井上秀だった。渋沢栄一、広岡浅子と、時代を画した二人の実業家と接点があった井上秀は、どんな女性だったのか。
「あさが来た」の広岡浅子に薫陶
秀は明治8年(1875)、今の兵庫県丹波市春日町に生まれた。生家は大地主だった。地元の小学校を終え、10歳の時、家から10キロ以上離れた氷上高等小学校に進んだ。寄宿舎に入った秀に人生最初の出会いがあった。裁縫の先生で、寄宿生の監督もしていた今井まき子だ。
京都府立第一高等女学校の出身だったまき子は、秀ら数少ない女子生徒にこう話した。「女に学問などいらないというのは古い考え方です。これからは女子も大いに勉強し、国家に尽くす人にならなくてはいけません。それには私の母校がもっとも良い学校です」。
第一高女に進みたいと願った秀だが、女子にこれ以上の学問は不要と考えていた父親の反対にあった。
高等小学校を卒業後、実家に戻り、ひとり悶々としていた秀に理解を示し、第一高女への進学に真っ先に賛成したのは祖母だった。この祖母は、夫と早くに死別したあと、女手一つで一家を営み、5人の子供を育てた村でも評判の“しっかり者”だった。
父親の反対はなかなかひるがえせなかったが、7月になっても後に引かなかった秀に父親もとうとう折れ、15歳の時、まき子の父親を保証人に京都府立第一高等女学校に進学した。
中途入学で、しかもレベルの高い学校だったため、とりわけ英語には難渋した。英語の試験は零点ばかりで、自分の無力を思い知った秀だが、へこたれることなく奮起した。英語塾に通い、個人授業を受けるなど英語を猛勉強。その結果、2学期末の試験では百点をとり、首席になった。
第一高女の同級生に広岡亀子がいた。親友になった亀子から「私の家へ泊りがけで参りましょう」と誘われ、出かけた広岡家で亀子の母、浅子に出会った。
朝ドラ「あさが来た」の原案本、『小説 土佐堀川』(古川智映子著)にはこうある。
「浅子は秀のことを、人間は活力が大切であるという自分の主張にぴったりの娘だと思った。秀を手塩にかけて育ててみたいという気持ちが動いた」
広岡家で浅子を真ん中にして3人で寝たり、3人で膳についたりと、浅子は娘のようにかわいがった。
浅子が営んでいた九州の炭鉱にも秀を連れて行った。5日間の炭鉱見学の旅を通して秀は、男性と同じ力を持つ女性の姿にふれ、深い影響を受けた。また、浅子は秀に対して「してはいけません」「おやめなさい」と言うことはほとんどなく、「やりましょう」「やりなさい」と励ました。秀はのちに、浅子から「生き抜く力」を授かったと回顧し、「浅子様との御縁で今日の私がある」と感謝している。
秀発案の託児所、渋沢が「命名」
明治34年、浅子が創立に力を尽くした日本女子大学校が開校。秀は、26歳で同大学校の家政学部に入学した。
明治37年、同大学校を卒業。教育者としての道を踏み出した。また、同大学校の同窓会「桜楓会」の幹事長に選ばれた秀は、この桜楓会を通して画期的な事業を展開した。
家政学などの研究のため、アメリカに留学した秀は、アメリカの大学の同窓会が社会的な活動を展開していることに刺激を受け、桜楓会でも社会のための活動をすべきと考え、アメリカで行われている託児所を思い付いた。秀はのちに、託児所の立ち上げを振り返って、こう書いている。
「単に子供をあずかって見るばかりでなく、教育するということも同時にやります。いよいよ実行ということになって、私から、学校の評議員である渋沢栄一先生に申し上げました。言下に了承してくださったのみならず、それは託児所と命名してくださった。此れが我が国に於ける託児所の始めであり、その名も初めてのものであります」
渋沢の協力も得て、大正2年(1913)、労働者の町だった東京・巣鴨に日本で初めての託児所を開設。家計が苦しくても、乳幼児がいるために働きに出ることのできなかった女性たちを支えることになり、脚光を浴びた。秀たちは、託児所の運営のため、音楽会やバザーを開くなどして資金を集めた。
秀は大正11年、アメリカで開かれた世界婦人軍縮会議に出席し、軍備撤廃を求める演説をするなど、平和運動にも尽力した。
大正14年、父親が死去。息を引き取る際、秀にこう言った。「あんたが家を出るのを喜ばなかったが、今ではそれを悪かったと思っている。よくまあここまで行ってくれた。満足だ」。女性に高等な教育は無用と考えていた父親だが、最期には秀を認め、我が娘をたたえた。