昭和39年(1964)、東京オリンピックで金メダルに輝いた日本の女子バレーボールチーム。その表彰式に一人の老紳士がいた。作家の城山三郎は、鈴木商店の盛衰を描いた著書『鼠』の中で「控え目ながらも、老紳士はそのとき笑みを浮かべていた」と書き、こう続けた。「日本チームの優勝の陰には、この老紳士のほぼ半生を賭けた苦闘があった」。老紳士とは当時、日本バレーボール協会会長で、「日商」(今の「双日」)の社長だった西川政一だ。西川は実業家である一方、城山が書いたように日本のバレーボールの礎を築き、育てた人物だった。2020年東京五輪・パラリンピックを前に、西川の功績を振り返る。
結婚披露宴直前に会社が破綻
西川は明治32年(1899)、今の兵庫県丹波市市島町に生まれた。もともとは須原という名字だった。小学校を卒業後、一時代を画した商社「鈴木商店」に入社した。入社といっても、小学校上がりなので丁稚奉公のような身分だった。
鈴木商店には、同郷の先輩がいた。今の丹波市山南町出身の永井幸太郎。西川より12歳年上で、鈴木商店の破綻後、「日商」を立ち上げ、戦後、貿易庁長官を務めた人物だ。
鈴木商店入社後、同じ丹波生まれの先輩がいることを知った西川少年は、当時、ロシアにいた永井に手紙を出した。
永井から届いた絵ハガキの返事には、「同じ丹波生まれの山猿。世界を相手にしっかりやろう」などとあった。西川はその返事にいたく感動。のちに「今の私があるのは、その時の感激と発奮が動機だったといっても過言ではない」と振り返っている。
一念発起した西川は、英語を勉強するために夜学に通った。昼間は働き、夜は勉強。日曜日も会社に行き、ひとり勉強した。
その姿を見ていたのが、鈴木商店の支配人、西川文蔵だった。文蔵から「我が家で下宿し、会社を休んで本格的に学校で勉強をしてみないか」と勧められた西川は、永井の母校でもあった神戸高等商業学校で学んだ。のちに文蔵の娘と結婚し、西川家に養子に入った。
鈴木商店が破綻したのは昭和2年の4月2日。皮肉なことに、その翌日に西川は結婚披露宴を挙げる予定だった。仲人は永井夫妻。当然、披露宴どころではなく、急きょ中止になった。
鈴木商店の破綻後、西川は永井らと行動を共にし、「日商」の創立に参加した。このとき西川は29歳だった。
敗戦後、日商は順調に成長。西川は常務、専務に昇格し、昭和33年、社長に就任した。
社長時代、西川は世界を駆け回った。行ったことがないのは北極と南極だけというほど馬車馬のごとく働いた。昭和44年には、日商と岩井産業が合併し、「日商岩井」を創立。西川は社長に就任した。
そんな活躍の一方で、西川はバレーボールの普及・発展にも力を尽くした。
中、比敗退悔しく、協会設立
西川とバレーボールとの出会いは、神戸高等商業学校で学んでいた頃だった。昼休みに面白半分でバレーボールを楽しんでいた姿が先輩の目にとまり、大正12年(1923)、極東大会に出場することになった。相手は中国とフィリピンのチーム。結果は惨敗だった。
悔しくてならなかった西川は国民の間にバレーボールを普及させなければならないと、関係者に働きかけ、「関西排球協会」をつくった。無名の一サラリーマンがバレーボールの振興に力を尽くそうと決意した。
神戸の自宅に協会の本部を置き、みずから機関誌の編集・発行にあたった。妻がインクにまみれながらガリ版印刷をした。また、バレーボールの文献を翻訳して手引書を作り、全国の主だった学校に送った。みずから宛名を書き、費用はすべて自分がもった。劇場を借りて映画会を催し、その収益をバレーボールの強化費に生かした。
この関西排球協会がのちに日本バレーボール協会へと発展し、西川は昭和23年、会長に就任。30年間も会長を務めた。
西川には『伸びゆく葦』という著書があり、作家の城山三郎が序文を寄せている。城山は、鈴木商店の盛衰を描いた作品『鼠』を執筆するにあたって、その取材で西川と親交を深めたのだろうか。城山は、序文でこう書いている。
「勤めていた会社が倒産する。サラリーマンにとっては、天地もひっくり返るような一大事であったろうが、西川さんはその前後も、会社の仕事に疲れ切ったあと、バレーボールの振興のため、新妻と力を合わせてガリ版を切ったり、資金をつくったりと奔走を続けた。一文の得になるわけでなく、誰かに認められようというのでもない。バレーボールを通して日本を愛したためである。日本のバレーボールの隆盛は、西川夫妻のこうした長年の努力のおかげであるように、わたくしには思える」
『鼠』で、東京オリンピックでの女子バレーボールチームの表彰式の様子を描いた箇所には、こうもある。
「女子選手たちの栄光の蔭にあって、この老紳士の努力はほとんど世に知られていない。だが、老紳士はそれで満足している。縁の下の力持ちの生活に慣れきってきたからである」
城山は、『伸びゆく葦』の序文でこんなエピソードも紹介している。
ある上司が社内で幅を利かせていた時、その上司に社員たちがすり寄った。しかし、この上司が失脚しそうだと分かると、社員たちはあわててその上司から離れていった。しかし、西川は残った。なぜか。西川はこう言ったという。
「落ちるときも最後まで一緒だと、心に決めていましたから」
城山は、「人間が人間に傾倒するというのは、打算ではなく、ロマンの問題である」と書き、西川を「ロマンの人」と評した。