明治32年(1899)の7月15日、今のJR福知山線(兵庫県尼崎市~京都府福知山市)につながる「阪鶴鉄道」が福知山市まで開通した。地域の発展に大きく貢献した阪鶴鉄道の開通から今年で120年になる。
開通時の試乗記 車内混雑、沿線に見物人
阪鶴鉄道が開通した明治32年7月15日。山間の兵庫・丹波の地に汽車が走った時の住民の歓喜ぶりを伝える記事が、「日出新聞」(京都新聞の前身)に掲載された。「文芽」と名乗る人物の試乗記で、車内や沿線の模様を伝えている。
「柏原へ着きたるは午前十一時、ムツと青田より石炭混りに送り来たる一陣の風に、心地悪しくせるうち、ドヤドヤと潮の如く押入りたる十余人のヤカラ…」と、当時の文体で表現している。
夏用の羽織や麦わら帽子、銀縁のメガネなどを身につけた「十余人のヤカラ」は、おそらく「沿道の村会議員に区長どの」だろうと推察し、「今日の開業式に招かれたるなるを、恰も蒸風呂の中に人の込あふたる如く、あつさはあつし、出るに出られず、此先々で乗り込まれたら如何なるかと窃に煩ふ」とあり、蒸し風呂と化した車内の人ごみを伝えている。
汽車はその後、石生、黒井、市島、竹田、福知山へと走る。途中、人はどんどん乗り込んでくる。「今は動き出しても立ちたる人が揺れぬ程の込合」というほどに車内はすし詰めのありさま。しかし、車内はにぎやかで、暑さも気にしていない様子。「あれが吉田の邸じゃ、早い早い、など口々に喋れども暑い事は毛ほどもいわぬは、炎天に慣れたる加減か、将た汽車の珍しさに忘れ居るにや」。
汽車の珍しさに引き寄せられたのは沿線の住民も同じ。「国旗軒端にひるがへり、煙花時々揚る」という祝賀ムードの中、かばんを肩にかけて田んぼ道を走り、汽車と競走する子どもたちがいる。山の上に登って見物している者がいる。汽車を見ようとして走って来る老婆がいる。さらには、親類縁者を招いたのか、数人の者で酒を飲みながら見物している家もある。
一方で、「車曳く牛の轟々の音聴きて噪ぎ出したるあり、引止めんとする男の気毒さ」とあり、普段は静かな山里に突如響いた汽車の騒がしい音に牛が驚いた様子も伝えている。
開通から3年後「阪鶴鉄道唱歌」
「篠山駅より尚ほ一里 町に入りなば西の方 高きは城の趾なるぞ 上りて見よや土地のさま」
開通から3年後に発表された「阪鶴鉄道唱歌」。この唱歌についての一編の論文がある。尼崎郷土史研究会会員の田中敦氏による「『阪鶴鉄道唱歌』について」だ。
「汽笛一声新橋を…」で始まる「鉄道唱歌(東海道編)」が明治33年に発表された。沿線の名所などを七五調で盛り込んだ同唱歌を契機に、唱歌ブームが起き、各地鉄道の沿線の風物や名勝などを読み込んだ唱歌が次々と作詞・作曲された。
阪鶴鉄道唱歌を作詞・作曲したのは荻野哲太郎氏。明治35年11月に大阪市の大阪製本印刷株式会社から印刷・発行された。単価は6銭で、2000部を発行した。
54番まであり、大阪から舞鶴までの阪鶴鉄道の旅程を、各駅と沿線の名勝とともに歌いこんでいる。ただ、舞鶴まで開通したのは、同唱歌の発表から2年後のため、福知山からは人力車や川船などを利用した唱歌となっている。
作詞・作曲の荻野氏は、慶応2年(1866)、大阪市の生まれ。出生直後に母親が亡くなり、今の丹波市氷上町成松の荻野六兵衛の養子となった。神戸師範学校を卒業、一時、兵庫小学校で教べんを執った後、郷里の成松に戻って教員をし、明治23年から有馬高等小学校で勤務。三田市の三輪小学校の校長を務めた。詩歌や茶、篆刻など多くの趣味があり、「摂丹子」などの号を名乗っていた。
荻野氏が同唱歌を作ったのは、各地で鉄道唱歌ができ、発表されるなか、阪鶴鉄道の唱歌が生まれないことにしびれを切らしたためのよう。作られないのならば、同鉄道沿線の地理や歴史にもくわしい自分がと、作詞・作曲に挑んだ。
教育者としての思いもあったようで、田中氏は論文の中で「教育者として、本件唱歌を沿線の地理歴史を児童に教えるための教材と考えていたことも認められる」としている。