一揆首謀者斬首の河原 人権ゆかりの地7カ所たずねる 人権・同和教育研究協議会

2019.08.31
ニュース丹波篠山市地域

曽地河原で処刑された人々を弔うため建てられた地蔵堂の前で、中野さんの解説に聞き入る参加者たち=2019年8月25日午後2時17分・兵庫県丹波篠山市上宿

兵庫県の丹波篠山市人権・同和教育研究協議会が25日、同市内の人権ゆかりの史跡を訪ね、その歴史を学ぶフィールドワークを実施した。市民や同協議会役員ら約30人が参加。同協議会内の啓発推進委員の6人を講師に、▽豊林寺(大芋地区)▽柿の木地蔵(福住地区)▽万屋半左衛門供養塔(同)▽本明谷マンガン鉱山跡(同)▽藤木幸助記念碑(城東地区)▽曽地河原の処刑場跡(同)▽中立舎(同)―の7カ所を訪ね、それぞれの場所で解説を受けた。参加者らは、人権史跡をめぐりながら、生活のために生死をかけて立ち上がった先人たちの生きざまに思いを馳せ、人権の尊さを学んでいた。

曽地河原の処刑場跡では、中野佳代子さんが講師を務めた。中野さんの解説によると、譜代大名の篠山藩は要職に就いた藩主が多く、そのための出費は莫大なものだった。藩財政は困窮し、農民への年貢の取り立ては厳しく、一揆は他藩より圧倒的に多い24件も起こった。一揆の首謀者や罪人を処刑する刑場は、江戸中期までは高城山山麓、後に、東は曽地河原、西は渡瀬河原の2カ所に定めた。

明治2年(1869)に起きた一揆は、篠山藩に隣接する三田藩で一揆が成功したとのうわさを聞きつけた今田の立杭村・小野原村の人々が年貢の5分引きを願って藩主に訴状を渡そうと篠山に押し寄せ、これに多くの人々が加わり全藩一揆へと発展した。藩は武力で鎮圧をはかり、176人を捕縛。首謀者のひとり、藤三郎(上立杭村)を曽地河原で斬首の刑に処した。

中野さんは、処刑された人々を弔うために建てられた地蔵堂を前に、「一揆の首謀者を大勢の前で斬罪の刑に処したのは権力維持のための見せしめでもあったろう。しかしこのことがかえって農民たちの自立を促したのでは」などと伝えていた。参加者たちは、メモを取りながら熱心に聞き入っていた。

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