江戸時代の文化8年(1811)、庶民から熱狂的に支持された一人の高僧が兵庫・丹波地域(丹波市、丹波篠山市)に足を踏み入れた。「南無阿弥陀仏」を唱えることで極楽往生がかなうとする浄土宗の僧で、徳本といい、徳本行者と称された。山奥や山裾に庵を結び、昼夜を問わず念仏に打ち込む苦行の末、念仏の奥義を悟ったといわれる。布教のため近畿一円をはじめ、関東や東海、北陸地方にも足を運び、「生き仏」と崇められた。晩年には、徳本が歩くあとに、徳本を仰ぎ慕う人たちが続き、「まるで大名行列のよう」と評されたほどだった。丹波地域を巡り歩いたのも晩年だった。徳本が歩いたと思われる丹波の地には、徳本が書いた「南無阿弥陀仏」の名号を彫った石碑が建てられ、今も路傍に残っている。郷土の先人たちの信仰心を物語る遺産である。
徳本は宝暦8年(1758)、今の和歌山県日高町で生まれた。俗名を徳太郎という。4歳の時、遊び友達が亡くなり、嘆き悲しむ徳太郎に母親が「お念仏を唱えれば、極楽浄土で会うことができます」と諭したのがきっかけで念仏を唱えるようになったという。27歳で出家、徳本と称した。
現世の苦しみから逃れたいと願う庶民はもとより、諸大名からも崇敬され、江戸・大奥でも帰依する者が多かった。俳人の小林一茶も徳本を慕った一人で、「徳本の腹を肥やせよ蕎麦の花」と詠んだ。徳本と一緒に旅した一茶が、徳本の一日の食事が一合の蕎麦であることを知り、驚いて作った句とされる。
徳本の念仏は、木魚と鉦を激しく叩くという独特のもので、全身から発する力強い念仏は、人々を仏道に引き入れるのに十分な魅力があった。徳本が巡り、教化した地には、徳本にひかれた庶民がおのずと念仏講をつくり、念仏に励んだ。丹波でも同様で、丹波市春日国領では「トッコウさん」、丹波篠山市川北では「トッコンさん」と、徳本の名をもじった念仏講ができた。
徳本は、人に請われて「南無阿弥陀仏」を揮毫した。字の“はね”を誇張するなど独特の書風で、その墨跡をもとに名号碑が各地で建てられた。和歌山県ではおよそ170基、長野県では200基、東京・埼玉では50基が確認されており、文化財に指定されているものもある。
丹波地域では、両市の浄土宗寺院で構成する浄土宗丹波組の調査によると、丹波市で5基、丹波篠山市で9基を確認している。病魔退散や旅の交通安全、子育てなどを祈願して建てたものという。
丹波市立青垣中学校近くの青垣町小倉には、側面に「天保四年」(1833)と刻まれた名号碑が立っている。台座を含めて3メートル近くあり、徳本の名号碑として全国的にも最大級の大きさという。碑の大きさは、徳本の滞在期間と比例しているといわれることから青垣では長逗留した可能性がある。
このほか、丹波地域には、丹波市では春日町国領、広瀬、黒井に名号碑があり、丹波篠山市では魚屋町、大野、矢代、西古佐、西吹、大山、宮田、口阪本、川北新田で名号碑が確認されている。これらの所在地から、徳本は丹波篠山の北西部を巡り、大山地区から瓶割峠を越えて国領に行き、青垣から但馬に向かったと推測される。
浄土宗元祖の法然は1192年、京都・久美浜に行く途次、丹波市春日町東中にかつてあった「見ノ寺」に立ち寄り、同寺で宿したと伝わる。徳本は、そのことを知っていたはずで法然の足跡を訪ねたいとの思いもあって、瓶割峠から国領に入ったのではないかと思われる。丹波を巡った7年後に亡くなった。