終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は小寺百合子さん(84)=兵庫県丹波市氷上町市辺。
国民学校2年生のとき、満州・ハルビンで終戦を迎えた。一家に何度も命の危機が訪れたのは、それからだった。
1936年(昭和11)、満州生まれ。父方の祖父は千葉出身の陸軍中将で、父は軍医。母方の祖父は熊本出身で、ロシア語を学んで満鉄に入り、関連会社重役を務めていた。
1歳のころに東京へ移り、母と、その後生まれた妹、弟と4人で暮らした。父は出征し、ほとんど帰らなかった。
東京での本格的な空襲が始まる少し前の1944年(昭和19)6月、母と子ども3人でハルビンに住む母方家族に身を寄せた。周辺は比較的落ち着いていたが、翌年、事態は一変する。
長崎に原爆が投下された8月9日、ソ連が不可侵条約を破って満州に侵攻。玉音放送のショックが覚めやらぬ中、外では中国人の略奪が始まった。学校は、国境沿いから逃げてきた開拓団の人たちの収容所になった。
ソ連兵が時折、家に上がり込んできた。略奪した腕時計をたくさんはめた不気味な兵士もいた。ある日、大柄の酔っぱらったソ連兵が母にピストルを突き付けた。「子ども3人で泣き叫び、ひるんだすきに母はピストルを持った手にぶら下がり、銃弾は戸棚に当たってめり込んだ」
この年の秋、祖父が頼りにしていた日本人一家が心中。小寺さんの親族も、死のうと覚悟を決めた。いざというときに飲む薬は、普段から首に掛けていた。母に「いつお薬を飲むの」と聞くと「明日の朝」と言われ、その晩は一睡もできなかった。
翌朝、親族が一部屋に集まり、それぞれ薬を取り出した。小寺さんは妹と震えていたが、なかなか「飲め」と言われない。恐る恐る目を開けると、祖母が「私の薬がない」と探していた。
祖父がおじたちを別室へ呼び、話し合いがもたれた。長い時間に感じられ、戻った祖父は「みんなでがんばってみよう」と言った。
1946年(昭和21)9月、ようやく日本へ帰れることになり、駅へ向う途中、祖父が連行され、そのまま消息が分からなくなった。翌月に文化戦犯として処刑されていたことが、後に史料で分かった。
引き揚げ船では、車座でじっと過ごした。食事は1日2回、ドロドロの糊のようなものだけ。お年寄りや病人はどんどん亡くなっていった。父が医者だった女の子も亡くなり、毛布に包んで水葬された。お人形さんのような青白い死に顔、お父さんの大粒の涙、膝を抱え込んでいたお兄ちゃんの姿―。今も小寺さんの目に焼きついている。
ようやく博多につき、その後、訪ねた親戚の家で、父が生きているという思いがけない知らせがもたらされた。小寺さんは「子ども心にも天にも昇るような気持ちだった」と回想する。「あのとき死なないでよかったね」と話し、つないだ手の上に、気丈な母の温かい涙がたくさん落ちた。
戦後は京都に住み、6人きょうだいになった。父が兵庫県氷上郡(現丹波市)の春日部診療所の医師になった縁で、中学3年生のときに春日部中へ転校。「中学生になって配られた『あたらしい憲法のはなし』に、日本は二度と戦争をしないと書かれていて、うれしかった」
神戸大学教育学部で学び、子どものころからの夢だった教師に。初任の年、「教え子を戦場に送るな」のスローガンを見て、胸が熱くなった。
氷上郡内の小中学校で教べんをとった現職時代は、戦争体験を積極的に語ることはしなかった。「日本は中国や朝鮮の加害者という意識が強く、話せなかった」と言う。退職後、周囲のすすめもあって語り部となり、講演した数は100回ほどにのぼる。
北朝鮮からの引き揚げ者だった同僚と結婚、子ども1人に恵まれた。今は孫2人、曽孫も3人いる。講演で小寺さんは子どもたちにこう伝えている。「9歳で終わっていたかもしれない命が、4代続いた。みんなも、祖先が戦争中も生き残ってくれたからここにいる。『奇跡の命』を大事にね」と。