終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は吉田巽さん(94)=兵庫県丹波篠山市大野。
「自分がいた部隊はどこだったか。さぁ覚えていません。話していることに嘘があったら申し訳ないけれど、よろしくお願いします」。かつて戦場を駆け抜けた一兵卒は、そう言って穏やかな笑みをたたえた。
75年が過ぎ、おぼろげになりつつある記憶。しかし、その分、刻み込まれている思い出は鮮明だ。生家近くには歩兵第七十連隊が駐屯し、射撃訓練に向かう兵たちの姿や、にぎやかな「軍旗祭」が脳裏に焼き付いている。
そんな場所で育った吉田さんは、18歳のころに召集された。出兵前には地域の神社で武運長久の祈願祭を開いてもらい、地元の小学校では子どもたちや町役場の職員らが送り出してくれた。
戦争に行くことに怖さはなかったのか、と問うと、「あのころは『お国のために』でしたから。玉砕してくるぞ、という覚悟だったと思います」。
入隊したのは陸軍。中国北部に送られ、万里の長城の下で訓練に励んだという。
訓練は厳しく、300メートルほど離れた場所から畳1畳ほどの的を狙って射撃した。
撃てば轟音が響く。「ドォーンって、それはすごい音でした」
手が震えるほど緊張し、的に当たらないこともしばしば。外せば上官から殴られ、時には部隊の仲間同士で互いを殴るよう指示されたこともある。手加減したら、すぐにばれ、また殴られた。与えられた銃には菊の紋章があり、きれいに磨いていたことを思い出す。
士官の食事を下げにいき、余ったものをつまみ食いしたことも懐かしい。もちろん、見つかったら殴られた。
行軍中、現地の民家に泊まったこともある。住民たちは日本の軍隊を恐れてか家の隅の方に身を寄せ合っていたが、「虱(シラミ)をうつされて大変だった」と笑う。
思い出深い現地での出来事の一つだが、命令されて民家を焼いたこともある。「中国の人には悪いことをしました」。顔から笑みが消えた。
実際の戦闘にも直面した。どんな作戦だったかは知らされていなかったのか、覚えていないのか、とにかく言われたとおりに動いた。
飛び交う銃弾の下をかいくぐり、自分が撃った弾が敵兵に当たっているのかどうかさえ分からない状況。部隊で親交を温めた戦友2人も亡くなったという。
「普通の銃で撃たれるよりも機関銃が怖かったねぇ。それから見渡す限りの平原を歩いているときは、地雷が怖かった。ドカーンとなったら終わりやから」
転戦を続け、北京にいたとき、敗戦の報を聞く。そのときの気持ちは「さぁ、なぁ」。アメリカ軍の艦船に詰め込まれ、母国の土を踏んだ。なぜか、食事に出されたパンが目に焼き付いている。
帰郷してみると、8人きょうだいの長兄は戦死しており、次男の吉田さんが家を継いだ。当時の新聞に兄の訃報が載っていた。ただ、名前は合っていたものの、肩書が「次男」と書かれており、「兄が身代わりになってくれたのかもしれない」と家族に話したこともあった。
両親は無事に帰ってきたことを喜んでくれた。よく面倒を見てくれた祖母は亡くなっていた。
その後は農業を営み、冬には酒造りに出向いて生計をたて、今では子ども2人、孫7人、ひ孫5人の家族となっている。
週に2日、デイサービスに行き、お風呂に入れてもらったり、ゲームや塗り絵をすることが楽しみだという。目標は「100歳まで生きること」だ。
75年が過ぎ、戦争のことを話しても真面目に聞いてくれる人が減っていると感じている。
しかし、今を生きる子どもたちには伝えたいことがある。
「昔はご先祖様を大切にしてきた。お盆には御詠歌をあげたり、お墓に参ったり。それがだんだんとなくなってきている。けれど、先祖がいたから今がある。それを覚えていてほしいですね」
今回、家族にもほとんど話したことがないという体験を小紙に話そうと思ったのは、「自分は戦争に行ってきたということを自慢したかった。戦争は怖いもの。でも、行った身としては誇りに感じるところもあるんです」と、当時身に着けていたゲートル(脚絆)を手に破顔する。戦争を否定しつつも、あの時、兵士として国のために戦ったことは、貴重な財産になっている。
世は新型コロナウイルス一色。「テレビをつけてもコロナのことばかり。たくさん人が亡くなり、今となっては戦争よりも怖い気がする。お店も開いていないところが多い。早くコロナがなくなって、昔のように戻ってくれることを祈るばかりです」