終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は藤木千皓さん(91)=兵庫県丹波篠山市小中。
地元の多紀郡日置国民学校6年時に太平洋戦争が勃発。「それまでは普通に勉強ができていたけれど、それができなくなった」と話す。東京への空襲が始まり、同校でも空襲からの避難や長刀を扱う訓練が始まった。校門をくぐる際には、米大統領ルーズベルトや連合国軍最高司令官マッカーサーに見立てたわら人形を一突きしてから、校内に入った。
毎朝5時ごろ、同級生3人と一緒に、戦地で奮闘する兵隊の武運長久を祈りに、自宅近くの波々伯部神社へ参拝した。「365日欠かしたことはなかった」という。雪が降り積もる日は、「近隣のお母さんたちが、神社へ向かう自分たちのためにわざわざ雪をよけてくれた」と語る。
弁護士になる夢を抱いていた藤木さんは「法律の勉強がしたい」と、卒業後、篠山鳳鳴高校の前身「篠山高等女学校」に進学。しかし、戦争の拡大で学校では満足に勉強はできなかった。戦地で使用する炭の原木を採取するため、山に登ったり、戦地に赴いている人の田んぼの稲刈りをしたりする作業に従事した。
1年生の7月から終戦までの3年半、主に未婚女性で組織された「女子挺身隊」として学徒動員され、伊丹の紡績工場「日東紡」で働いた。伊丹工場には、篠山高等女学校と舞鶴第一高等女学校の女学生計113人が派遣されたという。このほか、200人ほどの工員が働いていた。5年間の女学生生活の大半を工場で過ごした。
朝5時から夕方まで、航空兵のマフラーに使われる糸をつむぐ作業を延々とこなす日々が続いた。昼に食べられるのは、杯1杯分のご飯と大豆だけ。飲み物は1班5人の仲間同士で分け合った。弁護士の夢は諦めず、仲間が寝静まった消灯後、毎日1時間の勉強を続けた。
藤木さんは「戦時中、つらいと感じたことはなかったし、弱音を吐く仲間は一人もいなかった」という。「『戦地の兵隊さんはもっと大変な思いをしている。日本が勝つ日まで私たちにできることはこれぐらいしかない』という思いしかなかった」と回想する。
空襲警報が鳴らない日はなく、布団で落ち着いて寝られた日も一日もなかった。警報が鳴ると即座に仲間たちと防空壕へ逃げ込んだ。「いまだに逃げる夢を見ることがある」という。雷のような轟音が響く中、仲間同士で身を寄せ合い、「ふるさと」を歌っていた。1メートルほど先の目の前に、空から不発弾が落ちてきたこともあった。
16歳のとき、終戦を迎えた。藤木さんたちは大広間に集められ、先生から終戦の事実を伝えられた。先生は「多くの方が戦死された。君たちと同じくらいの人もいる。その人たちの分まで生きなければならない。この経験はみんなにとって宝物」と話したという。
翌日、藤木さんは丹波篠山出身者の仲間と共に帰郷した。「アメリカ兵が追いかけてくるかも分からんぞ」と、地元の景色が見えるまで休憩することなく歩き続けた。古里の景色が見えると、「思わずみんなで手を合わせて拝んだ」とほほ笑む。
その後、「神戸市立第一高等女学校」へ編入。昭和天皇が全国巡幸で兵庫県を訪れた際、藤木さんは天皇に花束を渡す大役を任された。「平和の鐘を鳴らして頂き、ありがとうございます。この鐘を永久に鳴らし続けていきます」と伝えた。涙で潤む昭和天皇の目を間近で拝んだ。「『慈しみの目』をされていた。『大きな決断を下されたんやなぁ』と感じた」と振り返る。
一見、過酷な戦時下の生活だが、藤木さんは「今となっては『つらかった』と思うことよりも、『良い経験やったなあ』と思うことの方が多い」という。「物、命、友情、助け合いの大切さを、身をもって学んだ。それを伝えていくのが自分の仕事です」