兵庫県丹波市でこのほど行われた「丹の里 人権のつどい」(同市など主催)で、詩人、書家の相田みつをさんの長男で相田みつを美術館長の相田一人さんが「いのち 一番大切なもの」と題して講演した。要旨は次のとおり。
中学3年生の男子から印象的な感想が届いた。「なぜ人を殺してはいけないのか」。学校の先生に質問してみても、その回答には納得がいかなかった。しかし、「いのち」という詩を見て、すとんと心におちたという。
父は栃木県足利市の出身。21歳で終戦を迎えた。あと1週間、戦争が続いていれば、自身がいた部隊は壊滅していたと話していた。戦中の「人権」がなかった時代と、今の2つの時代を生きた。
「もし相田みつをさんが今生きていたら、どんな詩を書いたか」とよく質問される。死んでいるので分かりませんと答えつつ、読んでほしい詩として代表作の一つ「道」を挙げている。新型コロナウイルスがまん延している今の時代を予見していたのではないかと思えてしかたない。もう避けられない状況にある。
この詩は「愚痴や弱音を 吐かないでな 黙って歩くんだよ」などと非常に厳しい口調で書いている。読者に向けてというよりも、自分自身を鼓舞する意味で書いたのではないか。うまくいくことより、いかないことの方が多いのが人生。「いのちの根がふかくなる」という言葉にそれを表している。厳しい内容の詩が生まれるのは、厳しい体験があったからだ。
一方「ぐちをこぼしたっていいがな」で始まる「ぐち」という作品がある。来館者から「言っていることが違う。どちらが本当なのか」と尋ねられたことがある。父は人生を見る2つの視点に立ったのではないか。父性的な厳しい視点と、母性的な優しい視点。「にんげんだもの」という7文字の後ろに、「道」「ぐち」が透けて見える。
復員した父は、書の道一本で生きていくことを決断したが、作品は全然売れなかった。そこで包装紙のデザインをさせてほしいと足利市の菓子店を営業して回った。デザインなどしたことはなかったが、包装紙と、菓子に短い言葉を添えたしおりが話題になり、仕事が増えていった。
そのしおりに書いた言葉の中には、後に代表作となる作品があるが、注目されることはなかった。30歳で初めての個展を開催。作品を一冊にまとめた「にんげんだもの」を出版したのは60歳の時。作品が知られるようになったのは没後だった。
父の職業を言う際は、詩人、書家と続く。父の言葉は短い。ただ詩をつくるのに1年、2年掛かったのはざらにある。10年掛かったものもある。詩ができれば、今度は納得がいくまで、すごい量を書く。たちまち30畳ほどあるアトリエには紙の山ができた。それでも父は「納得のいく作品は一つもない」と話していた。父の作品で、簡単に生まれたものはない。
父は17歳から書を始め、全国コンクールで1位を取るなど、そのまま書の道へ進んでも権威となるのではないかとされるほどの腕前だったが、みなさんが知っている作品の字は、誰でも書けそうだという誤解を与える。技術的にどんなにうまくなっても、人を感動させられるかという考えになったようだ。父の思いはこの文字でないと伝わらない。自分の思いを伝える文字だと言える。
2人の兄を戦争で亡くした。銃弾で撃ち抜かれ、即死だったと伝わった。祖母は苦しまずに死んだという意味で、「あんちゃん、よかったなあ、あんちゃん、よかったなあ」と死ぬまで2人の名を呼び続けた。一方、祖父は2人の兄のことに死ぬまで一言も触れることはなかった。(そんな祖母、祖父を表現した)「ひぐらしの声」という作品がある。父は、何も話さなかった祖父の思いを言葉にしたかったのではないだろうか。2人の兄の死がなければ、父の書くものも違っていただろう。
2人の兄の命を奪った戦争。なぜ人を殺してはいけないのかという中学生の問いに「自分の命が一番大事だ」と答えた「いのち」という詩。「いのち」を「人権」という言葉に置き換えても間違いはない。