戦をへて一大勢力に 巧みな処世で生き残った赤井氏【丹波の戦国武家を探る】(8)

2021.04.13
地域歴史

赤井氏、芦田氏の「撫子」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

弘治元年(1555)、赤井一族・荻野氏と芦田・足立氏の連合軍が氷上郡(現・兵庫県丹波市)香良で合戦におよんだ。背景には、赤井氏が属する細川晴元と細川氏綱を奉じる三好長慶の対立があり、それに赤井氏と芦田氏の嫡庶争い、荻野一族の内紛が相まっていたようだ。

戦いは激戦となり、芦田・足立方が大敗。赤井方も家清、荻野直正らが重傷を負い、直正は家来に負われて帰ったという。戦いの結果、赤井氏は氷上郡をほぼ制圧した。二年後、家清が戦病死して子の五郎忠家が家督を相続したが、幼少のため直正が後見して赤井氏と荻野氏を統率した。

五台山から香良城跡越しに見た香良の古戦場

下剋上の時代、直正が赤井氏の家督を略奪してもよい状況だが、惣領時家が健在であったため一族の結束に動揺はなかった。以後、直正は持ち前の武略で勢力を拡大、永禄八年(1565)、八木城主内藤宗勝(そうしょう)を破って丹波奥三郡を支配下におく一大勢力となった。

赤井氏の家紋について、『寛政重修諸家譜』の「赤井系図」には、嫡流が「雁金・黒餅に撫子・劔雁金・蔦・十六葉菊・五七桐」、庶流は「撫子・雁金」を用いたとある。一方、荻野直正の家紋に関して『赤井伝記』『黒井城山軍書』などに「御紋三つ巴・幕の紋は藤丸」とある。

ところが、津藩藤堂家に仕えた直正の子孫は赤井を名乗って「撫子」を用いた。また、室町時代の『見聞諸家紋』には蘆田氏の幕紋「撫子」紋が収録され、赤井氏が芦田氏と同族であったことがうかがわれる。

高見城北尾根の曲輪と切岸

天正三年(1575)、織田信長が丹波に兵を進めると直正は黒井に籠城、八上城主波多野秀治と結んで織田勢を撃退した。合戦後、直正は信長に詫び状を送るなどして、攻撃の矛先を巧妙にかわし、天正六年に病死した。

翌年、波多野一族の八上城、黒井城をはじめ後屋・母坪(ほつぼ)・高見・三尾(みつお)など赤井氏の諸城砦が落城、光秀に抗した丹波国衆らは滅亡あるいは没落した。

その後、直正の弟芦田時直が小牧長久手の戦いに徳川家康に通じ、甥の山口直友が家康の近臣として活躍した。かれらの功績もあって嫡流の赤井忠家、三尾城主幸家の子らも徳川氏の旗本に取り立てられ、直正の子直義は藤堂高虎に召し抱えられた。

一族の知行高を併せると一万石を越え、実に小大名並みのものであった。波多野氏らの無残な最期に比べて、赤井氏の巧みな処世には目をみはらせられる。

高見城 南北朝時代、丹波守護職・仁木頼章が築城。戦国期は赤井氏の詰めの城として機能。山上の主郭を中心に南に中ノ台城、北方尾根筋に曲輪群を築き、一大城砦群を構成している。主郭からは三尾城、金山城などが一望。

田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。

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