この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。
丹波国の西南端に位置する兵庫県丹波市山南町西部は、戦国時代、岩尾城に拠った国人・和田氏が治めるところであった。
和田氏の来歴については諸説があり、不明な点が多い。信濃国南和田(現・松本市)の武士、源頼綱が、至徳二年(1385)に丹波国市場之庄(同町井原上庄)の地頭職に補任され移住した。一方、文明三年(1471)に谷出羽守基綱が信濃国南和田から井原に移住、嫡男頼衡があとを継いだ等といわれる。さらに、慶長十三年(1608)に谷氏一族という梅田里兵衛(注)が書き残した『和田庄内和田邑之由来』によれば、和田氏の祖は、六孫王経基(清和天皇の孫)の子孫左衛門尉谷 兵部介頼衡が和田村の地頭となり、一帯に勢力を張ったという。
永正元年(1504)、頼衡の一族という和田日向守斉頼が信濃国南和田から来住、頼衡のところに足をとめた。斉頼の人物を気に入った兵部介は一人娘の婿に迎えた。ところが、家来の讒言を信じた斉頼は岳父頼衡を殺害、市場之庄を我がものとした。一件は、家来の讒言というが斉頼の下剋上を語ったものであろう。
丹波に根を下ろした斉頼は永正十三年(1516)、山ノ峯(蛇山)に岩尾城を築くと、近隣を侵略して所領を拡大、市場之庄を「和田庄」と改めた。さらに領内の新田開発に着手、隣郷の久下氏と水争いを起こした。赤井氏の仲裁で事なきを得ると新田を拓き、三千七百余石を領する勢力となった。以後、和田氏は赤井氏に従うようになったようだ。
さて、岩尾城主和田氏の家紋である。「梅田家の歩み」という書には「一族の家紋は丸の内に木瓜、代紋は丸の内に三つ星に一文字」とある。梅田家墓所の墓石にも「丸に横木瓜」紋が刻まれていたが、谷氏のそれを受け継いだものであろう。他方、同町岩屋の石龕寺に和田氏の後裔という和田家の墓所があり、墓石群には「酢漿草」「剣酢漿草」紋が刻まれていた。はたして、国人和田氏の家紋を継承したものか、その確証は得られなかった。
天文十七年(1548)、斉頼が病死すると、嫡男の作右衛門師季があとを継ぎ岩尾城主となった。天正三年(1575)、明智光秀が丹波に兵を進めると、師季は赤井氏に属して明智勢と戦った。天正七年、師季は討死、岩尾城は落城、和田氏は滅亡した。
岩尾城 岩尾城は「石の城」と「土の城」が並存し、堀切、井戸、石垣などが残存している。播磨との国境を押さえる要地に築かれ、石の城は和田氏時代の土の城の主郭部分を改修したものであろう。城址からの眺望は抜群である。
田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。