終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は十倉敏子さん(90)=兵庫県丹波市柏原町柏原。
隣に住む〝お姉さん〟の制服、スカート姿に憧れ、1944年(昭和19)4月、合格を果たした柏原高等女学校の校門をくぐった。しかし、戦局は日に日に悪化。モンペとわらじで通い、グラウンドの開墾作業や伐採した木をひたすら運ぶ、想像とは程遠い学校生活だった。
兵庫県丹波市市島町上垣出身。女学校入学後、学校での勉強は雨の日に限られた。疎開してきた学生も多く、教室に入りきれないため、雨天体操場で勉強したこともあった。
食糧などは配給制になり、目に見えて生活が苦しくなった。女性の先生が、どんぶりにかゆを入れて昼食を取っていた姿が忘れられないという。
自宅は空き地を開墾し、サツマイモなどを育てていた。都市部から田舎へ食糧の買い出しに来る「ヤミ屋」と呼ばれる人がやって来ては、野菜などを買いつけていった。野菜が多少傷んでいても売れた。「自分たちも含め、とにかく食べるものがない時代だった」
通学する汽車は、ヤミ屋とその荷物でいっぱいだった。座る席はなく、窓から無理やり車内に押し込まれたこともあったという。
戦後、運動会や音楽会もあり、楽しい思い出ができた。勉強できなかった時期が長かったことに悔しさが残るが、苦労を経験したからこそ辛抱強くなったと感じている。「少々のことではへこたれないですよ」と笑う。
今を生きる若者には、「米1粒でももったいないと思って育った。当時からすれば、今はぜいたくな生活。勉強できることを含め、いろんなことに感謝して過ごしてほしい」と思いを寄せる。