藩校復活を―。兵庫県丹波市で、江戸時代に建てられ、2007年に解体された藩校を復元させるアイデアが検討されている。織田家が藩主を務めた柏原藩の藩校「崇広館(そうこうかん)」。江戸末期から明治時代、丹波市の教育、行政の中枢を担った貴重な建物で、地元の関係機関が中心になって協議を進めている。
崇広館は、柏原藩主に重用され、藩政に大きくかかわった同市青垣町生まれの儒学者、小島省斎の進言を受け、柏原藩陣屋の北西隅(現・県柏原総合庁舎テニスコート)に建てられた。開校にあたって領民も協力。義援金や資材を出し、労力ともなった。明治初期の古絵図を見ると、平屋の木造で6室あり、ふすまを取り外すと、一つの大広間になったよう。10歳以上の藩士の子弟らが通い、四書五経の素読を中心に学んだ。明治4年(1871)、廃藩置県により藩校でなくなった。
同11年、郡区町村編成法が制定され、それまで単なる名称に過ぎなかった「郡」が行政区となったのに伴い、氷上郡役所が置かれることになり、同12年1月、崇広小学校の校舎として使われていた旧崇広館が氷上郡役所に生まれ変わった。同15年、2階部分を増築。1階の和風建築と同一化するようにしながら洋風建築を取り入れた。延べ床面積は約330平方メートルだった。
昭和9年(1934)、隣接の柏原高等女学校の講堂建築のため、今の法務合同庁舎がある所に移築。ことばの教室などとして使われたが、同合同庁舎を建築するため解体され、姿を消した。
兵庫県内で現存する藩校の遺構は姫路林田藩の敬業館(姫路市)など2件で、全国的にも20件ほどという。現存する郡役所の遺構は県内で、出石郡役所など4件。
協議を進める同市役所旧柏原支所活用協議会の西垣伸弥会長は、「崇広館は、かつて教育の氷上郡といわれたわが地域の原点。今の丹波市の礎を築いた行政機関の建物でもあった。復元する価値は十分にある」と話している。