若者の戦死「悔しい」 学徒勤労隊で工場労働 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

2021.09.26
地域

「戦争で亡くなった若い優秀な方たちが今生きていたら、もっと素晴らしい国になっていたのでは」と話す森下さん=2021年9月12日午後1時58分、兵庫県丹波市柏原町北中で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は森下政子さん(93)=兵庫県丹波市柏原町北中。

戦争に翻弄され続けた学生時代を過ごした。「尋常小学校」の最後の卒業生で、その年の4月からは「国民学校」へと名称が変わった。進学した女学校では学徒動員に駆り出された。「私たちの世代の体験を多くの人に伝えたい」―。

高知県長岡郡大杉村(現大豊町)の小学3年生だった1937年(昭和12)、日中戦争が勃発。駅まで4キロ弱の道のりを歩いて出征兵士を見送りに行った。白いエプロンに「大日本国防婦人会」と書かれたたすきを掛けた女性たちがはなむけの言葉を述べ、子どもたちは、習字紙にクレヨンで赤い丸を描いて作った旗を振った。ある日、出征列車が走り出した時、小さな男の子が「お父ちゃん、行ったらあかん」と泣き叫んでいた光景が忘れられない。「“赤紙”が来たら、どんな事情があっても戦地に行かねばならなかった。こんなにむごいことはない」と話す。

学徒勤労報国隊として、加古川の織物工場で働いていた頃の森下さん

41年(昭和16)4月、高知市の土佐高等女学校へ入学。制服はヘチマ襟の上着にプリーツスカートだったが、ほどなくズボンになり、普段着は絣の着物をつぶしたモンペになった。

44年(昭和19)の10月には、4、5年生計400人が「学徒勤労報国隊」として県を越えて兵庫で工場労働を命じられた。4年生は加古川の「日本毛織」社へ、5年生は伊丹の会社へ。「大人数の移動は秘密裏だったので、見送りもない中、夜の高知駅を後にしました」と振り返る。

翌日からは、陸・海軍兵の服地や毛布を織る仕事をしながら、空襲警報が鳴ると、防空頭巾をかぶって地下室に数時間潜むことが毎日のようにあった。寮では10畳の部屋に8人ずつ寝泊まりした。寝るときも履いていたモンペにノミが入り、かゆくて眠れなかった。食事は、ごはんの中に大豆の油をしぼったかすや、皮のままのジャガイモが入っており、お腹の具合が悪いときだけは5分がゆがもらえた。

女学校は5年制だったが、翌45年(昭和20)3月、「4年生も卒業してもらう」と言われ、校長先生が高知から卒業証書を持ってきた。校歌を歌うだけの卒業式。5年目は「専攻科」という名目で勤労奉仕を続けることになった。

同年7月2日、高知市が空襲で全滅。級友2人が孤児になる事態が起き、7月15日に全員、高知へ戻った。事前連絡もできなかったので両親は驚いた様子だったが、「よう帰ってきた」と抱きしめてくれた。

迎えた8月15日。朝、「日本は負けたんだぞ」と外で誰かの声が聞こえ、驚いて道路へ飛び出した。昼の玉音放送はよく聞き取れなかったが、文脈をつないで敗戦の報であることは理解できた。それまでの大本営発表を信じ切っていたので、「そんなはずはない」との思いでいっぱいだった。その日の夕方、同じ村の、夫が戦死した女性が「主人のところへ行きます」と自死したことにも大きなショックを受けた。

時は流れ、令和の時代になった。「戦争で亡くなった若い優秀な方たちが今生きていたら、もっと素晴らしい国になっていたのでは」と、ふと思う。「戦死した本人たちもそうでしょうし、私も悔しくて仕方がない。戦争は愚かなこと。絶対にしてはいけないのです」

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