党的武士団を形成 高氏の挙兵に応じた酒井氏【丹波の戦国武家を探る】(12)

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酒井氏 (丹波篠山市)

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

丹波酒井氏は、丹波国多紀郡(現丹波篠山市)西部の犬甘(いぬかい)・主殿(とのも)・油井保(あぶらいのほ)の地頭職をテコにして勢力を拡大した中世武家である。その出自については、平清盛の家人であった平筑後守貞能の後裔・兵衛次郎政親が関東から移住してきたことに始まるという。他方、戦国期に上総国山辺郡のうち土気(とけ)・東金(とうがね)を領した藤原姓酒井氏と同族とする説もある。

高仙寺に祀られる酒井四家の位牌(2017年撮影)

十三世紀、地頭と荘園領主の間で土地支配をめぐる紛争が頻発、酒井氏も主殿保の領家である法金剛院と激しく対立した。その一方で六波羅探題から宮田荘内の悪党追捕を命じられるなど、名実ともに勢力基盤を築きあげ丹波の有力国衆へと成長した。

元弘三年(1333)、足利高氏が倒幕の兵を挙げると、酒井氏は久下氏、中沢氏らとともに篠八幡に馳せ参じた。以後、半世紀にわたる南北朝内乱期における酒井氏の事績は不明なところが多いが、一族がそれぞれ館を構えて酒井党とよぶべき武士団を形成して所領を保ったようだ。

酒井一党が氏寺とした高仙寺には、酒井四家の先祖の木像、位牌が祀られ、こぞって「三つ巴」紋が描かれている。また、酒井氏は幕紋に「かこ(かく)」を用いたという。かこ(かく)は鎌倉幕府の有力者三善一族の用いた紋として知られ、政親の母光蓮尼(こうれんに)が鎌倉幕府公事奉行三善康清の娘であったことに由来するものであろう。ところで、上杉謙信が残した『関東幕注文』には上総酒井氏の「鐙(あぶみ)のかくともえ」紋が収録されている。さらに、『寛政重修諸家譜』に見える上総酒井氏は藤原秀郷流波多野氏の後裔、家紋は「三つ巴」とある。家紋を見るかぎり、丹波酒井氏は桓武平氏・藤原氏など出自を異にした武家が党を結んだ武士団であったようにも思われる。

高仙寺城址が残る松尾山

室町時代、丹波守護職は幕府管領職にも任じる細川氏であった。永正四年(1507)、細川氏は澄元派と高国派に分裂、酒井氏は澄元派に属し、高国派の八上城主・波多野元清との戦いに敗れて勢力を後退させた。永禄年間(1558~70)、酒井党四家は高仙寺にそれぞれ十石の土地を寄進、党的結合を強化して乱世を乗り切ろうとした。ところが永禄十二年に織田信長が上洛、天正三年秋から明智光秀が丹波に兵を進めた。波多野秀治に与した酒井党は、高仙寺・南矢代・油井・栗栖野の各城に拠って抗戦したが、衆寡敵せず没落の運命となった。

【高仙寺城】 標高687メートルの松尾山山上にあり、戦国期、酒井党の惣領であった矢代酒井主水介氏治が詰め城として築いた。山頂を削平し曲輪を連ねた山城、旧高仙寺に続く尾根筋にも曲輪が築かれ酒井党城砦群を形成している。

(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)

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