兵庫県丹波篠山市にある天台宗寺院・東窟寺の裏山にあった「岩谷観音」が建物の老朽化などで麓の本堂裏に遷座し、11月13―15日に新たな観音堂の落慶式と遷座開扉大法要が営まれる。秘仏の十一面観音菩薩像と共に下山することになったのが「釈迦三尊像」。経年劣化による変色や腐食が激しかったため、仏師が修復作業を行ったところ、1300年代前半の作と分かったほか、彩色や金箔などが施された形跡がなく、珍しい”未完の仏像”と判明した。仏師の手によって彩色が施され、700年越しに完成。記録のない謎の仏像に新たな命が吹き込まれた。
東窟寺は大化年間(645年ごろ)に法道仙人が開いたとされ、戦国時代には四十九院七堂伽藍を誇ったが、明智光秀が「丹波攻め」を行った際に焼失。江戸時代中期に篠山藩主によって再興された。裏山にある岩谷観音の本尊・十一面観音は、小遣いがなくなった人が月末に参拝すると金運に恵まれる「つごもり観音」としても信仰を集めている。
観音堂は建物の老朽化や檀家の高齢化などを受けて麓への遷座が決まり、本尊をはじめ、堂内の仏像なども下山した。
釈迦三尊像はいずれも寄せ木造りで、像高35・8センチ―41・3センチの釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の3体。老朽化が激しく、味わいよりも痛々しさを感じさせていたため、京都佛画研究所(京都市)に依頼して修復することになった。
同社は、オリジナルを尊重しようと彩色の存在の確認と、科学分析による顔料の特定などを試みた。しかし、成分測定では期待していた鉱物系顔料の成分が一切なく、あらゆる所から検出されたのは鉄系成分のみ。台座からは銅成分が検出されたことから、台座は彩色、像本体は黒か茶色一色という結論が導き出された。
現代では仏像に黒っぽいイメージを持つ人も多いが、寺院に奉納された当時の仏像は通常、彩色か金箔が貼られるため、同社は、「驚くべき結果」とし、「途中で制作がとん挫するなど、特殊な状況が発生した可能性もある。動乱期に巻き込まれたのでは」と推測した。
一方、作風からは1300年代前半の鎌倉時代末期から南北朝時代初期あたりと推測。放射性炭素年代測定でも95・4%の確率で「1323―1355年」「1391―1425年」の範囲に入るという結果が出た。
また、造形の美しさは「類いまれなるもの」(同社)で、京都や奈良といった都の仏師の作風を持ち、非常に洗練された技術者の作ということが見て取れるという。
未完の状態に修復することも検討したが、これ以上の腐食を止めることや、新しい堂内に安置されることから、当時の意匠を尊重しつつ、彩色で仕上げ、過去の仏師の作品を現代の仏師が完成させた。
観音堂は明治18年(1885)に落雷で焼失するも2年後に再建。本尊・十一面観音は再建される際、同じ天台宗寺院の神池寺(兵庫県丹波市市島町)と京都毘沙門堂門跡寺院(京都市)から譲り受けている。
住職の岩谷晃圓さん(84)と副住職の宗圓さん(42)によると、堂内に安置されていた三尊像に関する記録は一切なく、詳細は不明だった。ただ、以前から堂内にあれば、明治の焼失で焼けているため、再建時に▽本尊と共に譲り受けた▽寺内の別の場所にあったものを安置した―のいずれかが考えられるという。
岩谷住職は、「黒かった頃は、すすがついているのかと思っていたが、まさか未完だったとは。遷座がなければわからなかったこと。これからさらに大切にしていかないと」と目を細め、宗圓副住職は、「当時の人は完成できず心残りだったはず。檀家の皆さんの協力で遷座に合わせて完成することができ、ご縁を感じます」とほほ笑んでいる。
遷座開扉大法要では、33年に一度となる十一面観音の特別公開があるほか、大般若転読祈願法要も営まれる。