1月17日で阪神・淡路大震災の発生から27年となった。震災発生後、さまざまな団体や個人が被災地支援を行う中、同じ兵庫県にあって被害がほとんどなかった丹波篠山市内でいち早く行動したのが、「ひおき愛育班」だ。発生翌日の昼食におにぎりを届けるほどの迅速さで、市内に身を寄せた被災者の支援にも取り組んだ。「班員はもちろん、家族の皆さんも活動を理解して下さり、本当にありがたかった」と話すのは、当時の班長・藤木千皓さん(93)。どのような思いを胸に活動したのか。話を聞いた。
震災翌日の早朝、分班長らが集まり、緊急会議を開いた。「時間がたてば多くの支援があるはず。でも、直後はない。早く何かしないと」
テレビを通して震災の悲惨な状況を知った班員らは、「とにかく食べ物を」と炊き出しのおにぎりを作ることを即断。会議終了後、そのままおにぎり作りに入った。
米は約80人の班員が自宅から持ち寄り、漬け物も添えた。食中毒が起きてはいけないと、手袋をはめるなど衛生面にも気を配った。完成したおにぎりは300個。当時は交通渋滞が発生していたため現地には行けず、被災地へ向かう社会福祉協議会の職員に預け、その日のうちに避難所に届けてもらった。それから40日間、毎日、おにぎりを握り続けた。
ほかにも地域の母子を支援してきた愛育班の目線から、粉ミルクやおむつ、生理用品などもかき集め、着物をほどいて布おむつを作ったこともあったという。
藤木さんは、「そのうち班員以外からも『近くにいるのに知らなかった』と協力してくれる人も出てきてくれた。とにかく被災された方のことを思っての活動だったが、輪が広がっていくのを感じましたね」と振り返る。
2月に入り、被災した高齢者を丹波篠山市内の特別養護老人ホーム「山ゆりホーム」で受け入れることになり、社協から愛育班でつくる「愛育班協議会」に入浴時の衣服着脱や食事介助などの援助要請がかかった。
ホームに入って活動する班員たち。しばらくして、食事介助を受けようとしなかった一人の男性が班員に手招きをして介助を求めた。食事を食べてもらえた喜びに、班員が涙を流しながら「ありがとう」と言うと、「明日も来て」と返事があった。初めて聞いた男性の声に班員たちは目を丸くした。話せないと思っていたからだ。
介護が必要な上、大震災を経験し、見知らぬ土地に身を寄せざるを得なかった人たちのショックを垣間見ると同時に、心が通い合えた喜びも感じた。
協議会としての援助は3月末で終了したものの、ひおき愛育班は、被災した人々に寄り添い続けたいという思いと、日ごろの職員の苦労を知ったことから、自主的にホームに通うことにした。このことがきっかけとなり、ホームへの支援は今も続いている。
1995年を「ボランティア元年」と呼ぶこともあるが、当時はまだボランティアという言葉が浸透していなかった時代。藤木さんは、「義母に『ボランティアって何』と聞くと、『お金をもらわず、むしろお金を出して人を助けること』と教えてくれた。それからずっと、ボランティアは『しに行く』のではなくて、『させていただく』ものだと言い続けています」と話す。
そして、「震災時のボランティアをさせてもらったおかげで、愛育班の活動に火がともり、今も続いている。ありがたいことです」とほほ笑む。
あれから27年。藤木さんは近所の子どもたちから、「ニコニコおばちゃん」「笑うウルトラマン」など、さまざまな愛称で呼ばれ、愛されている。「人のために」と行った活動が、違う形で自分のところへ戻ってくるのだと信じ、活動を続けている。
◆愛育班 1933年の上皇陛下誕生を機に、翌年、乳児死亡率の低下や母子の健康、福祉向上を目的に母子愛育会が設立された。「愛育班」は、地域で子育て支援や高齢者への声掛けなどに取り組んでいる。愛育の母として親しまれた故・矢崎きみよさんの言葉に、「奉仕。これは最上のよろこびです」とある。