この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。
波々伯部氏は、丹波の中世における指折りの国衆。波々伯部は「ハハカベ・ホオカベ」などと読まれ、難読姓の一つである。「波々伯部」とは、古代の朝廷で亀卜に用いる「ハハカ(上溝桜(うわみずざくら))」の木を献上する部民(べのたみ)が居住していたところをいう。承徳二年(1098)、丹波国波々伯部村の田堵(たと)らが祇園感神院(ぎおんかんしんいん)(祇園社)に執行(しぎょう)行円を通じて田を寄進した。これにより、祇園社領波々伯部保が成立した。播磨廣峯(ひろみね)神社の分霊を祀ったという波々伯部神社は、このとき祇園社の分霊を勧請したとも伝えられる。
波々伯部氏が確かな史料にあらわれるのは、承久三年(1221)閏十月の関東御教書(みぎょうしょ)で、波々伯部保の下司職(げししき)盛経の存在が記される。盛経の一族は下司職を相伝して鎌倉御家人に列(つら)なり、信盛の代に南北朝時代を迎えた。足利尊氏(高氏)が篠村八幡宮(京都府亀岡市)で討幕の兵を挙げると久下・中沢氏らとともに参陣、以後、尊氏方として行動した。建武四年(1337)、宮田庄の波々伯部為光は勲功の賞として伯耆国(ほうきのくに)に所領を与えられている。波々伯部氏は盛経系と為光系など諸流があり、為光系は系図によれば八幡太郎義家の後裔を称している。
室町時代、細川京兆(けいちょう)家が丹波守護職になるとその被官となり、応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』には波々伯部氏の幕紋「舞鶴根引之松(まいづるねびきのまつ)」が収められている。舞鶴根引之松紋は「祇園社(波々伯部神社)」の神紋でもあり、社伝によれば源満仲(みつなか)が幕を寄進したとき根引松を咥(くわ)えた二羽の鶴が飛来、瑞兆として幕の紋にしたという。神社と関わりの深い波々伯部氏ならではの紋といえよう。
永正四年(1507)、丹波守護職で幕府管領の細川政元が後継争いのもつれで暗殺された。細川京兆家は分裂、翌年、澄元派の中沢元綱と高国派の波多野元清が福徳貴寺(ふくとくきじ)で合戦沙汰となった。波々伯部氏は高国方として行動、戦後、波多野氏を通じて感状を受けている。この戦いをきっかけに波多野氏が多紀郡を制圧すると、波々伯部氏は波多野氏に従うようになった。
その後、波々伯部氏は淀山城を本城に、東山城、南山城を構えて一族を配し、有力国衆となった。天正期、明智光秀の丹波攻めが始まると、波多野秀治が拠る八上城の東の備えを担って抗戦、没落の運命となった。江戸時代、帰農して名字を「波部(はべ)」に変えたという。
淀山城 城址は南山麓を山陰道が通じ、西方に八上城を見る小山にある。小さな城にみえるが、山全体を帯曲輪と竪堀・横堀、堀切で防御した堅固なつくりの山城。主郭と北郭を区画する切岸は10メートルを測る見事なものである。
(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)