生死分かれ目「秒以下」 壕直撃の焼夷弾で負傷 戦後77年―語り継ぐ戦争の記憶④

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短歌をつづったノートを手にする井上さん。6月5日、8月15日は戦争の歌を詠む

今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は井上敏さん(93)=兵庫県丹波市市島町段宿=。

「生死を分けたのは1秒、いや、もっと短かったかもしれない」―。昭和20年6月5日朝の「神戸大空襲」で、一緒に避難中の級友2人を亡くし、1人助かった。

阪神御影駅近くにあった兵庫師範学校予科2年の16歳、教師を志していた。午前5時半から6時ごろの間に、寮生に「敵機が紀伊水道を北上中。大阪か神戸を狙っている。早く食事を済ませ、部署に付け」の指示が出た。部署は、軍需工場と化した教室。海軍の航空機「銀河」の弾扉の部材、合板を作る任務だった。

間もなく空襲警報。退避命令が出され、事前に割り当ててられていた防空壕へ飛び込んだ。「ザーッ」と空気を切り裂く焼夷弾の不気味な音が止み、外をのぞくと、校舎が燃えていた。ここにいては焼け死ぬと、壕から逃げ出した。

自分が先頭、すぐ後ろを宍粟郡と美方郡の級友が走る前方に、敵機第二波が襲来。束のまま落とされる焼夷弾が、空を黒く埋め尽くした。45度の方向から弾が降って来る。直撃を直感した。道路脇に無人の防空壕の入り口を見つけ、飛び込もうとした矢先、体がよろけ、後ろの2人が先に入った。自分も入りかけた瞬間、焼夷弾が壕を直撃。下半身が壕に埋まり、身動きが取れなくなった。

上半身は地上に露出しており、「助けてくれ」と叫ぶが、みな自分が逃げるので必死。身体をよじることもできず、寮の庭に生えていた満開の夾竹桃が燃え、お稲荷さんの鳥居が将棋倒しのように一つ、またひとつ焼ける様を見ていた。「炎の色と勢いを、今も克明に覚えている」

気付き、助けてくれたのは、同郷の同級生(青垣の小寺寛逸さん)。右足を骨折した上に、腰の神経を強く圧迫され、立つことができず、背負われて阪神電車の高架下へ運ばれた。

同級生が、埋まっていた2人を掘り起こした。首は胴から離れ、内臓は破裂していた。防空壕は、うつぶせになれる深さと幅に土を掘り、骨組みの木の上に、土が落ちないよう木のこまをのせ、その上に土を盛った粗末なもの。ひとたまりもなかった。

療養のため6月末、担架に乗せられたまま帰郷。実家に戻っても、空襲警報に恐怖がよみがえり、「こんな所に爆弾は落とさへん」と言う父に、山の中に避難させてくれと懇願。溝に身を隠したこともあった。今もサイレンや、花火が怖い。

15年ほど前、壕で亡くなった級友の兄から連絡があった。すでに50回忌法要も済ませた弟の最期を知りたいという兄と面会した。別れ際、兄がつぶやいた。「運命ですね。戦争はあきませんな」

養父郡で教師をしていた同級生が、自身の退職直前に、突然手紙を寄越した。「あの時、お前と分かっていたのに助けず逃げた」と、反省と謝罪したい思いを抱えながら、教壇に立ち続けた慚愧の念が綴られていた。

大混乱の最中、誰が助けずに逃げたかなど、全く覚えてもいなかった。「そんな傷を持ちながら、平和教育をしていたと思うと何とも言えない気持ちになる。そんな傷を誰かに持たせる戦争は、やったらあかん」

終戦直後から、師につかず、結社に入らず、短歌を詠み続けている。予科の春のある日、教官が教えてくれた万葉集の歌に心を奪われた。忘れないようその歌を書き留めた紙が、翌日の持ち物検査で見つかり、殴られた。瞬間、全身に電気が走り、決意した。「戦争が終わったら、必ず短歌を詠もう」

戦後77年目の6月5日もあの日のことを詠んだ。

「半身を埋められしまま防空壕より夾竹桃燃える火と音今も鮮やか」。

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