今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は山根武さん(86)=兵庫県丹波市山南町上滝=。
「幼かったこともあり、戦争の恐ろしさを実感しないまま暮らしていました。あの出来事に遭遇するまでは」―。
1936年3月、東京・中野区生まれ。戦争は身近に感じてはいなかった。「東京に空襲なんてなかったからね」
しかし、小学3年生だった44年秋から、東京でも頻繁に警戒警報や空襲警報が鳴るようになった。そのたびに近所の10人くらいと一緒に防空壕に向かい、身を潜めた。「ラジオから聞こえる大本営発表では、輝かしい戦果を収め続けている日本なのに、なぜ東京が空襲されるのか、幼いながらに疑問に感じていましたよ」
同年の晩秋のある日のこと、快晴の空に目をやると、米軍機と複数の日本の戦闘機が交戦状態にあり、日本の戦闘機が次から次へと撃ち落とされる様子を目撃した。しかし、あまりに高高度での戦闘だったので、恐怖を感じることなく眺めていたという。
次の瞬間、近所のお母さんが「あーっ」と叫んだ。「何事か」と視線を移すと、米軍機に撃ち落とされて脱出したと思われる日本軍パイロットが空から落ちてきた。「落下傘が開かず、しぼんだままの状態でした。最初は小さな黒い点だったのが、見る間に大きくなって人の形となり、目の前の公園にドーンと落ちた。居合わせた近所のお母さんたちは、『かわいそう』とみんなで泣いていた。衝撃的な出来事でした」
45年3月9日夕方、山根さんは母親に連れられ、2歳下の弟と、父親の実家がある兵庫県丹波市山南町上滝へ疎開するため、東京駅にいた。構内はごった返し、汽車の中も網棚に人が乗るほどの超満員。そんな中で鈍行列車が出発した。
米軍機に狙われないよう、汽車は客車内を薄明かりにして走行した。どれくらいたっただろうか。山根さんは薄暗い車内で大人たちが「今、東京が激しい空襲に遭っている」とささやき合っているのを耳にした。
3月10日未明、一夜にして死者10万人以上、罹災者100万人を超える被害に見舞われた東京大空襲だ。「もう半日、出発が遅れていたら、私たちはどうなっていたか。間一髪とはこのこと」
山南町の父の実家で終戦を迎えた山根さん。その後、父・順治さんも無事帰郷。しかし、非農家だったため、食べる物には困った。
順治さんが大手出版社の岩波書店に勤めていたため、実家には大量の本があった。「父がその本を自転車の荷台にくくり付けてそこら中の農家を回り、物々交換でサツマイモを手に入れて帰ってきました。しばらくは本を売ってはサツマイモなどの食べ物に交換するという暮らしを続けました」
奈良でサラリーマン生活を送っていた山根さんは49歳の時、脳内出血で入院。しかし術後の処置が原因で、頭がい骨の内側が化膿し、猛烈な頭痛に見舞われ、緊急手術によって一命をとりとめた。「九死に一生を2度経験しました」と苦笑いする。その笑顔を一転、語気を強め、「この地球上から戦争が一切なくなることを切に願っています。しかし再び、大国の思惑で、世界が嫌な感じになっている。戦争をして良いことは何一つないのに」。