戦国時代、丹波の有力国衆といえば、明智光秀の丹波攻めに抗戦した八上城主・波多野秀治と黒井城主・荻野(赤井)直正が双璧であろう。
武家波多野氏は「将門の乱」に活躍した藤原秀郷の玄孫とされる佐伯経範が、相模国波多野庄に住して「波多野」を称したことに始まった。経範七代の孫・波多野義重は、「承久の乱」(1221年)の功によって越前国志比庄(しひのしょう)の地頭職を与えられ、同地に下向した。義重は曹洞宗の開祖・道元禅師を志比庄に迎えて永平寺を建立したことで有名。この義重の流れが秀郷流波多野氏の本流となる。鎌倉時代には六波羅探題評定衆をつとめ、室町時代も幕府評定衆の一員として活動した。『見聞諸家紋』には、評定衆・波多野氏の幕紋「鳳凰竪引両」が収録されている。
さて、丹波波多野氏である。その出自に関して、『姓氏家系大辞典』では「因幡国八上郡田公(たぎみ)氏の族、日下部姓。応仁の乱に山名宗全に従って上洛す云々」などとある。また、『籾井家日記』では「秀郷後裔、波多野筑前守義通公の五代の末、経基公の御時、初めて丹波国に御安住なされ候、云々」とある。文字通りに諸説ありだが、これまで藤原秀郷流とするものが多かった。
丹波波多野氏の出自に関して信頼できる史料として、南禅寺の月舟寿桂(げっしゅうじゅけい)が波多野元清の求めに応じて記した初代清秀の「波多野茂林居士肖像賛」が知られる。それには「茂林居士は石州の人、姓は源氏で吉見氏、十八歳で上洛、細川勝元に仕え、母方の姓波多野氏を名乗る。云々」とあり、丹波波多野氏は石見吉見氏の一族で、波多野氏に改めた武家であった。
さて、応仁の乱に戦功をあげた清秀は、文明年間(1480年ごろ)、細川政元より多紀郡の小守護代職に任じられて丹波に下向、奥谷城を築き、のちの発展の地歩を築いた。二代の元清は多紀郡に居を置く一方で京にも邸を構え、細川氏内衆として行動した。丹波波多野氏は在地生え抜きの武家ではなく、細川氏を後ろ盾とした新興の勢力であった。
その波多野氏が飛躍する契機となったのは、細川政元が暗殺されたのちの「両細川の乱」であった。乱に際して元清は、はじめ澄之方に与し、のちに澄元・高国方に転じた。さらに澄元と高国が対立すると、高国に与して澄元方の酒井氏・中澤氏らを制して多紀郡を掌握したのである。
奥谷城(蕪丸(かぶらまる)) 丹波に入部した初代清秀が築城。高城山上に築かれた八上城から南西に伸びた尾根先の小山にあり、曲輪・土塁・竪堀・堀切などが良好に残っている。とくに、背後の尾根筋を遮断した大堀切は最大の見所である。
高国政権を背景として多紀郡を掌握した波多野元清は、高城山に八上城を築き丹波に根をおろした。大永六年(1526)、次弟・香西元盛が高国に殺害されると、長弟・柳本賢治とともに晴元方に通じて高国方から離反した。八上城・神尾山城に拠って高国の討伐軍を撃退した元清らは、翌年、桂川の戦いでも高国勢を撃破して晴元政権の立役者となった。
享禄三年(1530)、浦上村宗の支援を得て巻き返しに出た高国と晴元・三好勢が摂津天王寺で合戦、敗れた高国は自害した。この争乱の渦中に元清は死去、秀忠が波多野家の家督となった。
一応の安定をえた晴元政権であったが「両細川の乱」はおさまらず、秀忠は乱を巧みに利用して勢力を拡大。天文九年(1540)、娘を晴元政権の有力者・三好長慶に嫁がせ、山科言継(ときつぐ)が日記『言継卿記』に丹波守護と記す存在となった。秀忠時代が丹波波多野氏の最盛期であった。秀忠の没後、嫡男・元秀が波多野氏を継承した。
永禄二年(1559)、元秀・秀治は三好長慶の攻勢に敗れて八上城から没落した。永禄九年、八上城に復活した秀治は多紀郡一帯を支配下においた。二年後の永禄十一年に足利義昭を奉じた織田信長が上洛、戦国史は大きく動いた。天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが始まると、黒井城主の荻野直正と結んで抗戦。籠城戦の末の天正七年六月に開城、秀治らは安土城下で処刑された。かくして、丹波波多野氏は、初代清秀から秀治まで五代百年の歴史に幕を閉じたのである。
さて、丹波波多野氏の家紋である。菩提寺誓願寺に祀られる秀治の位牌に「丸に出十字(出轡とも)」紋が描かれ、後裔という波多野家でも「丸に出十字」が用いられており、丹波波多野氏の家紋は「丸に出十字」であったとみて大過ないだろう。その紋形からキリシタンだったのではと言われるが、受け入れがたい。
ところで、丹波波多野氏は出自をはじめ不明なところが多い。将軍の偏諱(へんき)を受けたと思しき「稙通」「晴通」らの実在性、氷上郡に割拠したという「西の波多野氏」の所伝、のちの追贈位につながった正親町(おおぎまち)天皇即位の礼への献金などなど、いずれも史料的裏付けはなく当時の状況に照らしても鵜呑みにはできないものである。しかし、それらの物語は、むなしく滅亡した波多野氏への鎮魂歌ともいえそうだ。
八上城 十六世紀のはじめ、二代・元清が多紀郡に睨みを効かせる拠点城郭として構築した。波多野氏の盛衰はあったが、山上の主郭を中心に曲輪群を尾根筋に配し、土塁・竪堀・堀切などで防御した丹波屈指の一大山城。
(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)