岩谷産業陸上競技部監督として活躍する廣瀬永和さん(57)と、廣瀬さんと二人三脚で世界を相手に戦ってきたアテネ五輪(2004年)女子マラソン金メダリストの野口みずきさん(44)が、小川さんの母校、兵庫県丹波市の小川小学校で講演した。演題は「プロフェッショナルに学ぶ『夢に向かって―小川から世界一への挑戦』」。近隣住民も多数詰めかけた。2人は対談形式で、小学校時代の思い出や陸上競技との出合い、世界一にたどり着くまでの道のりをなど語り、児童たちに夢に向かって努力することの大切さを熱っぽく伝えていた。講演後は、5、6年生を対象に陸上教室を催した。
卒業以来、一度も母校を訪れたことがなかったという廣瀬さんは、「ただいま帰りました」と第一声。会場を沸かせた。「食べ物の好き嫌いが激しく、給食を食べない子だった。先生から『食べるまで帰さない』と言われても頑として食べなかった。扱いに困る児童だったと思う」と、小学生時代を懐古。運動が好きで、走ることよりもソフトボールなど球技が得意だったという。
進学した地元の中学校では野球部に所属。マラソンが速かったので、強豪・西脇工業高校からスカウトされ進学した。「高校ではみんなが速かったので足元にも及ばなかった」と苦笑い。成績が思うように伸びず、大学卒業後は指導者に転身したという。
野口さんは中学校で友人に誘われ、陸上を始めた。県で7、8番の選手だったが、高校では県でトップとなり、インターハイなどを経験した。
「ハーフマラソンの女王」と呼ばれた野口さん。ハーフで何勝もし、「フルマラソンを走ったらどうなるだろう」と思うようになっていた頃、2000年のシドニー五輪で高橋尚子さんが金メダルを取り、大歓声を浴びる姿に「あの大歓声を独り占めしたいと思った」と、五輪を意識したきっかけを披露した。
「野口さんにとって廣瀬さんはどのような存在か」と問われると、「引退するまでの約20年間を一緒に歩んだ。家族、お兄ちゃんのような存在。厳しく指導、注意してくれる半面、ふざけるときは思いっきりと、オンオフがしっかりできる人。だから私も練習やレースに集中するときと、リラックスするときが切り替えられたので、上を目指し続けられた」と答えた。
廣瀬さんは「同じ夢へ向かう中で互いのモチベーションが維持できないと目標達成は難しい。当時は2人とも精神的にぎりぎりのところでやっていた。ストレスを発散して、いかに練習を続けられるか、そのためオンオフの切り替えが必要だった。逃げ出したいけれども、目標に向かって頑張っていくための作業だった」と振り返った。
野口さんも「精神的に参り過ぎて、合宿中はツチノコを見たりUFOを見たりと、変なものを見てしまう。そこまで追い込まれていた」と笑った。
講演の結びに野口さんは、「努力をしても、夢がかなうということはない。ただ、自分が目標としているところに一歩でも二歩でも近づける。転ぶことが100回、1000回あったとしても諦めずにチャレンジすることが大事」と語り掛けていた。
廣瀬さんは、「夢を持つことは大事。でも、失敗を生かして次に進むことの方がもっと大切で、選手にも常々言っている。失敗しても良い。どんどん自分の目標、課題に取り組み、前に進んで」と訴えた。
講演後の陸上教室では、速く走るこつを伝授。野口さんらは「脇をしっかり締めて腕を振ると、それは推進力となる」「前傾姿勢を意識する」などと伝えたほか、走るために必要な肩甲骨や股関節の柔軟性をアップさせるブラジル体操を指導。児童たちは野口さんの後に続いて脚を上げたり、腰をひねったりしながら駆け回っていた。
6年生の児童は、「夢がかなったら良いなと思うが、ちょっとずつでも確実に夢に近づいていこうと努力を重ねていくことが大切ということを教わった。2人の話に勇気がもらえた」と話していた。