鍛錬でつなぐ日本の技 鋼を沸かして一打入魂 刀匠・藤井啓介さん

2023.01.07
地域

ほとばしる火花。熱した玉鋼を鎚でたたいて鍛える=兵庫県丹波篠山市今田町下立杭で

谷あいに響く鎚(つち)の音―。20年前に兵庫県丹波篠山市今田町下立杭に鍛錬場を構え、鉄と炎と対峙する藤井啓介さん(62)。「関の孫六」で知られる孫六兼元の流れをくむ刀匠だ。真っ赤に〝沸かした〟鋼を、何度も折り返し、一打一打、魂を込めながらたたいて鍛え、「折れず、曲がらず、よく切れる」といわれる日本刀の刀身を生み出している。

刀の材料となる「玉鋼」

刀身の素材には島根県のたたら製鉄の技法で生産された「玉鋼(たまはがね)」を用いる。一振り作るのに約5キロを必要とするが、鋼に粘りを与えるため、たたき延ばしては折り返し、また、たたき延ばすという工程「折り返し鍛錬」(刃先となる皮鉄(かわがね)で12回)によって鍛え上がった刀身の重量は1キロほどとなる。

ふいごを動かして風を送り、炉の中の鋼を〝沸かす” 藤井さん

刀身作りで最も難しい工程は「焼き入れ」という。750度に熱した刀身を一気に水の中に沈め急冷。この時に日本刀特有の反りが生まれる。焼き入れの際、刀身がどれ程熱せられているかは目で見て判断。その温度を見誤ると「刃切れ」「焼き割れ」が発生し、これまでの苦労が水の泡となってしまう。反りは、部分的に焼きを入れることで生じる。「いわば、ひずみのようなもので、刀身には相当な無理が掛かっている状態ということ。刀工となって34年になるが、いまだに焼き入れの瞬間は緊張する」

神戸市出身。サラリーマン家庭の次男として生まれた。工作やプラモデルが好きな少年だった。将来の進路を考え始めた高校生の時、「ものづくりがしたい」という気持ちが漠然とあった。

日本刀との接点は、家にあった一振りの刀。「自分で日本刀が作れたらすごいだろうなあ」

高校を卒業したら刀匠に弟子入りしたいと考えていたが、両親の反対に遭い、しぶしぶ大学に進学した。

「サラリーマンをした方が安定した人生を送れるのは分かっていた。しかし、『刀を作りたい』という思いを一生抱えながら生きていくのは嫌」

大学を卒業してから弟子入りしてもよかったが、厳しい世界であるというのは容易に想像できたからこそ、「自分にはこの道しかない」と、逃げ道を断つため、大学を中退。「腹をくくった」

1983年、岐阜県関市の刀匠で、27代・兼元金子孫六に弟子入り。4畳半を与えられ、住み込みで修業の日々を送った。

名門に弟子入りしたものの、仕事は炭切りなどの雑用と、鎚の素振り練習ばかり。それでも「刀を作りたい」という強い思いはかすむことなく、こつこつと精進を続けた。

89年、文化庁主催の「美術刀剣刀匠技術保存研修会」を修了。弟子入りから6年目、念願の作刀が許された。

93年、独立し、静岡県に鍛錬場を開設。しかし、年老いてきた二人だけの生活に不安を感じ始めた両親が兵庫に帰ってくるよう願ったため、実家に近い場所に鍛錬場を移すことを計画。2002年、縁あって現在の今田町で鍛錬場を構えた。

日本刀の歴史は神話の時代にまでさかのぼる。儀式用の祭器に始まり、やがて武家勢力の拡大に伴って武器として日本独自の進化を遂げた。日本人の魂として時代を渡ってきた日本刀。明治9年の廃刀令以降、武器としての役目を終えたが、力強さの中に秘めた美しさによって、今では美術品としての価値を見出され、受け継がれている。

「日本刀づくりの業界は今、深刻な後継者不足にある。連綿と受け継がれてきた日本唯一の技術を継承していかなくては」と危機感を募らせる。

鍛えた刀身を手にする藤井さん

「日本刀の魅力はなんといっても刀身そのものが美しいこと。刃文、地金に品がある」と力説する藤井さんは、「古刀」の研究、再現にも力を注いでいる。古刀は、平安中期から安土桃山時代末期までに作られた反りのある日本刀のことで、その製造技術はロストテクノロジー(失われた技術)とされている。「現代刀(戦後に製造された刀)は地金がのっぺりとしている。対する古刀には『潤い』がある。刀工として、どうしてもそれを再現したい」

関連記事