ロシアのウクライナ侵攻から1年が経過した。ロシアの町、タンボフと民間交流する丹波タンボフ交流協会会長の河津雅人さん(36)=兵庫県丹波市=は、侵攻後、数少ないウクライナ語話者として民放テレビの報道番組などで通訳を担当している。プライベートでもウクライナ、ロシア双方にいる友人、知人とやり取りを続けている。河津さんに話を聞いた。
―侵攻で河津さんの生活も変わった
東京都内の通訳派遣会社に就職し、ウクライナ語、ロシア語の通訳として、テレビ朝日「サンデーステーション」、読売テレビ「ミヤネ屋」「かんさい情報ネットten.」、毎日放送「よんちゃんTV」などの番組に関わっている。東京はオンラインで、大阪は局に入って通訳する。放送で使うのはごく一部。放送できない、凄惨な動画を翻訳段階では目にすることもある。
現地からの映像や国内で撮られた映像の翻訳、中継の通訳のほか、ウクライナからの避難者への取材に同行し、通訳することもある。十数組の国内避難者に会った。
―避難者の困りごとは
一つは言葉の壁。もう一つは日本の書類文化。毎月、支援金の手続きに市町村の窓口に行かなければならないし、似たような書類を何度も書かなければならないことにへきえきしている。
日本への避難者は、知人や親戚に「安全だから」と促されて来日する人のほか、ヨーロッパに避難したくない人たちだ。例えば、隣国のポーランドだけで、300万人の避難者を受け入れている。戦争だから支援しなければいけないと思っていても、社会的に受け入れられるキャパシティーを超えていて、いろんな問題が起きている。
―河津さん自身も避難者の受け入れ準備を進めていた
大学を卒業したばかりの22歳の女性の身元保証人になり、ビザ発給を申請したが、審査に1カ月半かかった末、ビザが下りなかった。侵攻当初は申請翌日にも発給されていたが、日本の身元保証人と避難者間のトラブルが増え、外務省も審査機関も緊急性を重視するようになった。3人以上の子を持つ親と、高齢者らは別だが、以前のようにビザは下りない。
―国内にとどまっている人の思いは
自国に強い思い入れや、愛郷心がある。ゼレンスキー大統領への絶対的崇拝ということでもない。国民の思いは、去年の侵攻前ではなく、2014年のクリミア併合前、ウクライナがロシアから独立した時点の領土の一体性を回復することだ。
ロシアの支配地域、占領下に取り残されたお年寄りは、砲弾が飛び交う中、避難するのに足手まといになりたくないと、「生まれた場所で死ぬ」と腹をくくっている。
―ウクライナの生活は
物が入りづらく、平時より値段は上がっているが、各国の経済援助、人道支援で食糧はある。ヨーロッパのようなインフレにはなっていない。電気代、ガス代が上がっているとは聞かない。計画停電や破壊されたインフラの復旧で通信環境が悪いといったことはある。この冬は暖冬で、氷点下になる日は少なかった。
600万人が国外避難し、工場は稼働できず、経済成長率はマイナス2桁。皆が後方支援のボランティアをし、軍を支えている。学校はオンライン授業が続いている。
一方、ロシアが実効支配するウクライナ東部のドネツク市の男性は、自宅にこもりプログラマーとして働いているが、外出できず、買い物は友人の女性に頼んでいる。ドネツクやルハンスクで健康な男性が歩いていると、徴兵事務所に連れて行かれることが日常的にある。ウクライナと戦うために前線に送られてしまう。
―ロシア人の友人の反応は
SNS(交流サイト)で世間話をし、何人かに日本語を教えることを続けてもいるが、戦争の話は、「言いたくない」「考えたくない」と、思っていることがあっても口にしない。権力への消極的な服従。そうしていれば、自分の衣食住は脅かされない。ロシアはエネルギーの自給ができ、市民生活への影響は中間層でも出ていない。
そもそもロシアではデモは規制が厳しく、しづらかった。侵攻後さらに厳しくなり、1万人ぐらい拘留され、気持ちがあってもデモはできない。
―私たちにできる支援は
2つある。一つは、興味を失わないこと。二つ目は、金銭的、物質的支援。私は、侵攻後、日本ウクライナ文化協会(大阪府八尾市)に入った。協会が、ウクライナ西部の比較的安全な所で建設を進めている避難キャンプに寄付を続けている。25人が収容できる木造の1棟が完成し、数を増やそうとしている。
私個人としては、ウクライナへの人道支援を続ける。一つは、通訳としてウクライナ報道の末端を担い、情報を伝えること。もう一つは、ウクライナの文化芸術活動を支えること。戦争中にウクライナの詩人が作った詩集の出版に際し、対訳と校正を担当した。
河津雅人(かわづ・まさと) エリコ通信社・スラブ世界研究所主任研究員、丹波・タンボフ交流協会長。2010―11年、ロシア国立モスクワ言語大学留学。13年ウクライナ国立キーウ・モヒラ・アカデミー大学院社会学研究科在籍。