「忌まわしい記憶」 「被爆伝承者」が語る広島 心の傷は今なおいえず #戦争の記憶

2023.08.13
地域注目

被爆体験者から聞き取った体験を語る山本さん=兵庫県丹波市山南町谷川で

兵庫県丹波市人権啓発センターの「平和のつどい」がこのほど、同市立山南住民センターで開かれた。被爆者の体験や平和への思いを語り継ぐ「被爆体験伝承者」の山本美弥子さん(同県芦屋市)が、広島原爆の被爆者らから聞き取った内容を伝えた。14人が来場し、平和の尊さについて考えた。

被爆者の高齢化が進み、当時の体験を話せる人が少なくなっていることから、広島市が2012年度から被爆体験伝承者を養成。山本さんは、被爆者の細川浩史さん(95)から聞き取った体験を中心に語り、被爆の実相や、当時の子どもたちの暮らしにも触れた。

1945年8月6日、17歳だった細川さんは、爆心地から1・3キロにあった職場の広島逓信局にいた。突然、あまりにも強烈な閃光と、爆風で体が吹き飛ばされてたたきつけられ、爆発音で聴覚が一時的に失われた。たまたま柱の陰にいて、熱線を浴びることは免れたという。

近くの河原に逃げたが、大やけどを負った兵士や少年たちであふれていた。少年たちは水を求めたが、細川さんは与えなかった。「やけどを負った人に水を飲ませたら死ぬ」と厳しく教えられていたからで、その後、少年たちは次々に亡くなっていった。細川さんは「あの時、水を飲ませてあげればよかった」と語っており、今でも心の傷はいえないという。

翌日、自宅に帰った細川さんは、中学1年生で13歳の妹、瑤子さんの被爆死を知った。やがて、瑤子さんの遺体が、母の嗚咽とともに運ばれてきたという。当時の広島の中学1、2年生は、建物疎開作業をしていた。壊した後の瓦などを整理するのが生徒の仕事で、瑤子さんも作業中に被爆した。

重症だった瑤子さんは、歩けない体で大きな鉄橋をはって川を渡った。そこで軍の救援トラックに拾われ、10キロ離れた臨時の救護所に運ばれた。ここで看護を受け、最期をみとった地元の女性から後日、細川さん宅に手紙が届いた。

手紙には、瑤子さんが救護所で母を待ちながら、6日夜に息を引き取ったことが記されていた。最愛の娘の死後、笑顔を失い、哀しみの生涯を終えた母を思い、細川さんは今も心を痛めている。瑤子さんは5日まで日記を付けており、母は時おり、これを誰もいない所で読んでは、声を殺して泣いていたという。

細川さんは「戦争は国家的テロで、人間を狂気にする。その究極が原爆だ。原爆は広島と長崎ではなく、人類全体に落とされた。人間の存在を否定した原爆を実体験し、奇跡的に生き残った。忌まわしい記憶が消えることは、生涯ない」と強く訴えているという。

山本さんは最後に、「広島で多くの被爆者に出会った。とてつもない困難を抱えたとき、人はどうやって乗り越えるのか、生き方を教えてもらったと思う。それは、優しさと強さだと感じている」と結んだ。

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