今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は上田嘉平治さん(97)=兵庫県丹波市柏原町田路=。
天皇と宮城(皇居)を守る近衛師団の歩兵第一連隊の衛生兵だった。1945年(昭和20)8月14日深夜から翌15日未明にかけ、日本の降伏を阻止しようと、決起した陸軍青年将校らが宮城を占領したクーデター未遂事件「宮城事件」を経験した。
45年1月、繰り上げで受けた徴兵検査に合格し、姫路市で衛生教育を受けた。4月に近衛師団歩兵第一連隊に配属。天皇の近くに身を置けることを光栄に感じ、「配属先を聞いて『しめた』と思った。近衛師団は憧れの的でしたから」と振り返る。
現在の日本武道館があるあたりに勤務先があった。診察室や治療室への配属は面白くないと感じ、病理試験室を希望した。
与えられた任務は、近衛兵の健康維持。ほかに同僚はおらず、大部屋にたった1人。軍医の指示で、体調がすぐれない兵士たちの採血をして、赤血球沈降速度(血沈)を測ったりした。検尿や検便などの検査も受け持った。
配属初期、下士官の求めに応じ、採血した。それまで採血をした経験はなく戸惑った。終わった後に「初めて採血しました」と伝えると、「それを先に言わんか」と一喝されたが、後の祭り。「うまいことできていますよ」と言って乗り切った。
8月14―15日には、前代未聞の事件「宮城事件」に遭遇した。ポツダム宣言の受諾を容認する聖断が下り、天皇が自らの言葉で終戦の詔書を朗読し、レコード盤に録音。刻一刻と近づく終戦に対し、徹底抗戦を唱える陸軍の一部青年将校らがレコード盤の奪取を試み、降伏の阻止を狙った事件だ。将校らは近衛師団長を殺害し、偽の師団長命令を発して宮城を占拠したが、朝には鎮圧された。
この15日未明、寝ているとたたき起こされた。仲間から「戦時装備をして、次の命令を待て」との命令が下ったと聞かされた。自身も慌ててかばんの中身を戦時用に入れ替え、ガーゼや脱脂綿、包帯を大量に詰め込んだ。それまで戦時装備の命を受けた経験はなく、「米軍が本土に上陸したなどというニュースは聞いていないし、『なぜなんだろう』という不思議な思いだった」と振り返る。朝を迎えても次の命令はなく、「『おかしなことが起こるもんやな』と思った」。
同日正午、いわゆる玉音放送を聞いた。雑音と理解が難しい言葉だったため、ほとんど聞き取ることはできなかった。それでも「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の部分ははっきりと聞こえた。「毎日のように空襲を経験し、東京は焼け跡だらけだった。敗戦して当然だろうという気持ちはあった」と語る。
10月に帰郷し、農家として人生を歩んできた。「東京ではずっと空襲の日々。負傷兵の救護をしたこともあるが、火災の恐ろしさは言葉で表現することはできない。風でどんどん広がっていく。戦争だけは二度としてはいけない」と力を込めた。