今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は高見富枝さん(92)=兵庫県丹波市市島町中竹田=。
「宝塚上空、B29襲来」―。そんな音声がラジオから聞こえ、間もなくすると、空から次々と焼夷弾が落ちてきた。当時14歳だった少女は、防空壕の中で震えながら死を覚悟した。
丹波市春日町野村出身。14歳だった1945年の時、通っていた黒井高等小学校の友人2人と一緒に、宝塚市にあった航空機生産工場「川西航空機宝塚製作所」で働くことになった。「小学校の頃から軍事教育を受けてきた。とにかく『お国のために』という気持ち。『危ない』と親から止められることもなかった」
友人2人は製造現場に、高見さんは書類を整理する事務職に配属された。ラジオから空襲警報が流れることは「じょうし(よく)あった」。夜間に警報が鳴ると、寮近くの山にすぐさま逃げた。「B29はサーチライトで具合よく、きれいに下を照らし、ただ通り過ぎるだけだった」
ある日の朝食後、空襲警報がラジオから流れた。慌てて、背丈ほどの高さの「雨が降ったら水が漏れてくるような、お粗末な」防空壕へ逃げ込んだ。その後、「ヒュー」と花火が上がるときのような音が聞こえ、焼夷弾が落ちてきた。「バン」「ダン」と地面に弾着するたびに防空壕の中で土がバラバラと落ちてきた。「今度は死ぬ、今度は死ぬ」とかがみながら恐怖に耐えた。
空襲がやんだ後、工場と寮の状況を確認するために歩き始めた。「道路のあちこちに大きな穴が空いていた。空はどんよりとして、紙が燃えながら降ってきた。お日さまは黒かった」。見慣れた工場と寮は跡形もなくなった。
着の身着のままの状態となり、り災証明書を受け取って、鉄道で故郷へ戻った。帰郷後も、南の方から「ドーン」と空襲の音が聞こえる日があった。ほどなくして終戦を迎えた。
19歳の時に、理容師免許を持つ照次さんと結婚し、丹波市市島町中竹田に嫁いだ。その後、夫婦で理容室「理容たかみ」を開業した。現在は長女の智津子さん(70)が継いでいる。
「食べるものはないし、頭も洗えないのでしらみがわく。今思えば、よく辛抱できていた。『欲しがりません 勝つまでは』という教育が根付いていたから。私だけじゃなくて、みんな」と振り返り、「今は何でもある時代。けれど、『もったいない精神』はのかへん。デイサービス施設でも、クーラーが付き過ぎていると、つい止めてしまう。(暑さで)『命に関わるからあかん』と言われるけれど」と苦笑する。
ロシアのウクライナ侵攻の影響を受ける一般人に思いをはせ、「私らの時代と同じ。かわいそう」と大粒の涙を流す。「当時も、子どもができた新婚さんが多く出征していた。戦争でみんなの平和な生活が奪われる。心が痛む。戦争は二度としてほしくない」と、ハンカチで目頭をぬぐった。