今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は松岡緑(みどる)さん(97)=兵庫県丹波市春日町下三井庄=。
戦艦「榛名」の対空砲手だった。1945年(昭和20)7月28日、広島の江田島小用海岸に停泊中、米軍艦載機が襲来。激しい爆撃を受け、仲間の多くが絶命した。翌日、海に浮かぶ仲間の遺体を収容する任務に当たり、ある上官の亡骸を火葬した際、身に着けていた遺品を預かった。「いつか必ず遺族に届ける」―。面識はなく、手がかりは極めて少なかったが、48年かけて遺族のもとに届けた。
ボートで榛名の乗組員の遺体を収容し、海軍兵学校近くの坂道を上がって火葬する場所を探した。小さな広場に出たが、たき物もない。「命令だから仕方ないが、最も大変な仕事を押し付けられたと感じていた」と振り返る。近くで枯れたマツや竹を集め、何とか火を付ける準備を整えた。同じ任務を与えられた、複数の組が遺体の火葬に来ていたという。
松岡さんたち5人が運んだ遺体は、海軍砲術学校の卒業記念メダルと懐中時計を身に付けており、松岡さんが預かることにした。「せめて遺族に渡したいと頭に浮かんだ」と回想する。火葬後にはのど仏の骨も拾い、遺族に届けると誓った。
制服の階級章などから、上等兵曹であることや、姓は「原田」であることは分かった。しかし、それ以外のことは一切、不明だった。ほどなくして訪れた戦後、関係機関に問い合わせてみたものの、「原田姓だけでは分からない」との回答で途方に暮れるしかなく、毎年の盆に正覚寺(丹波市春日町中山)で遺品などを供養してもらう年月が続いた。
転機が訪れたのは、戦後48年たった93年(平成5)のこと。遺族探しをしていることを知った戦友の助言もあり、榛名に乗っていた分隊長と知り合うことができた。この伝手から調べが進み、遺族が判明。長年、探し続けた上官は、徳島県山川町出身の原田正雄上等兵曹と分かった。
早速、遺品と塔婆を持って同町を訪ねると、原田さんの母はすでに鬼籍に入っており、兄嫁らが迎えてくれた。「こんなにありがたいことはない」と涙を流す遺族に、原田さんの墓を参りたい旨を伝えると、「遺骨として戻って来た箱を開けると、泥だんごが入っていたので、墓はない」とのことだった。長く預かっていた遺品を、そっと仏壇に供えた。「肩の荷が下りた。これも神や仏の導きだと思った」と振り返る。
ここ数年、自宅近くの大路小学校から依頼を受け、6年生に戦争の体験を語っている。松岡さんの授業を受け、今年の6年生14人は「語り継ごう 平和への思い『二度と戦争はくり返すな』」のテーマで、学んだことを発表したり、思いを詩にして全児童や保護者に伝える「平和宣言」をした。
「次代を担う小学生が、戦争をしてはいけないということを心に刻んでくれたことに感動した。戦争は殺し合い。こんなにばかげたことはない」