今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は熊谷善次さん(97)=兵庫県丹波篠山市曽地中=。
「鳳鳴中学校の頃は、先生が軍服を着た人でした。小銃の使い方なども教えられ、まるで軍隊のようでしたね」。97歳になった今も鮮明に当時の情景が浮かぶ。
よく覚えているのは夏のある日のこと。「蚊帳をつった部屋の中で寝ていたら、朝の4時か5時ごろに人が来ましてね。家に入ってきた父が、『こんなん来たわ』と。兄への赤紙(召集令状)でした」。10歳離れた兄は日中戦争などで出征した経験があり、またも戦地に赴くことになった。兄は3日ほどしてから近くの神社で住民らに送ってもらった。それが今生の別れとなった。
自身はその後、神戸・深江にあった高等商船学校に入学。学徒動員で同県尼崎にあったプロペラ製造工場で働いたこともある。「プロペラの試作品として、木で作ったプロペラがあったんです。風を切る所だけ鉄にしたものでした。節約だったのでしょう。私はそれを見て、『日本は厳しいのかもしれない』と感じたことを覚えています」
学校の近くには戦闘機を造っていた川西航空機があった。そこを狙ったのか、米軍の爆撃機が多数飛来し、爆撃に遭ったこともある。
「空を見上げると手を伸ばせば届きそうに思うくらいの所に爆撃機が飛んできて。生徒たちはばらばらに走って逃げた。私は山の方に向かい、『ドオーン』という音が響くたびに電柱の陰にはいつくばって隠れました。生きた心地がしなかった」と振り返る。
授業どころではなくなり、東京・越中島にあった商船学校に籍を移した。人間魚雷と言われた海軍の特攻兵器についてもここで知り、終戦の「玉音放送」もここで聞いた。「私たちは天皇陛下が何を話されているのか分からなかった。そのうち教官たちがざわつき始め、『負けた』と。泣いている人もいました」
その後、帰郷し、しばらくして兄の戦死が分かった。兄は南方、ボルネオの戦いに身を投じていた。届いた荷物に遺骨はなく、ただ、「熊谷」の印鑑と万年筆だけが入っていた。
同じ村の中でも多くの若者が戦死した。父も日露戦争に出征し、足を負傷していたこともあって、戦場の苛烈さは分かっていた。戦死の報を聞いても「諦めな仕方がない」と言うだけだった。
その心中までは分からないが、30歳で亡くなった兄の名は、「長寿」といった。名付けた親の願いは戦争によってかなわなかったことだけは確かだ。
「兄の青春時代は戦争ばっかりでかわいそうだった」。自身はもうすぐ100歳に手が届くほどの〝長寿〟。戦後、縫製工場を営み、今も残った端切れなどを使って布草履を作る。「兄の3倍も生きてこられたのは、兄が守ってくれているのかな」
あれから78年が過ぎた。自宅には長寿さんが日中戦争時に撮影した写真を載せたアルバム「在満記念」が残る。りりしい兄や仲間の兵士たちと共に、戦時のむごい場面も写されている。
「戦争になると、人はこんなにもひどいことをする。ほんまに戦争はしたらあかんと思います」とし、「ただね、最近思うのは、手ぶらで『戦争反対』と言っても駄目だということ。戦争をしないための『力』は持たないといけないと思うんです」。