新しい年を祝う元日の午後4時10分ごろ、石川県能登半島を最大震度7(マグニチュード7・6)の巨大地震が襲った。被害は半島の広範囲におよび、珠洲市、輪島市など北部で甚大な被害が出た。多数の死者、倒壊家屋も確認されている。兵庫県丹波地域からも心配の声が聞かれる。輪島市出身者で、兵庫県丹波篠山市今田町下小野原で左官業を営む藤田勝行さん(73)に話を聞いた。
震度6強を観測した輪島市(2万1980人、426平方キロで、藤田さんの生家が倒壊した。2階部分はかろうじて形状を保っているが、1階部分は押しつぶされた。藤田さんは「帰る家がなくなってしまった」と寂しげに語り、「被災した家に住む家族や能登半島近辺に暮らす親類が無事だったことが唯一の救い」と作り笑いをみせた。
生家は、朝市通りなどがある海沿いの輪島市中心部から国道249号沿いに約15キロ南西の田園地帯にある。50年ほど前に建て替えた木造2階建て(延べ床面積約230平方メートル)。藤田さんは中学生までこの家で育った。現在は、亡き義弟の妻とその娘の2人が住んでいる。
発災直後は電話で連絡がつき、「家は倒れずに立っている。私たちもけがはない」との返事をもらい安堵していた。しかし、その後も強い余震が続いたため、安否が気になり、再び連絡を試みたが不通。「どないしたんやろ」。やきもきしながら回線の復旧を待った。
ようやく連絡がついたのがその日の午後7時ごろ。ラインで生家の画像が送られてきたが、その写真に驚愕した。「私たちは避難所に身を寄せていたため、けがなどはないけれど、余震で家がつぶれた」と、1階部分が倒壊した姿が写っていた。
藤田さんによると、2007年3月25日、能登半島沖を震源に発生したマグニチュード6・9の大地震で、生家が傾いたため、地盤に樹脂を注入して傾きを修正。加えて耐震補強もしたという。
当時、藤田さんは篠山市左官技術研究会の会長を務めていたため、被災地からの要請を受け、土塀や漆喰が塗られた伝統的な建物の修復技術を指導するため、同会員を伴って現場に足を運んだこともあったという。
「今すぐにでも支援物資を持って生家や金沢の親類のもとへ行きたいが、個人が行くことで被災地を混乱させたり、道路渋滞の原因を作ったりしてしまうだけ。現場が落ち着くまでは、気をもむくらいしかできない」と表情を曇らせる。