1月20日。石川県七尾市で避難所になっている小学校を訪ねた。避難所を運営する人と事前につながっており、生活再建に至る流れを記した資料や、丹波篠山市の小学生から託された子どもたちのおもちゃを届けるためだ。「のとのみんなへ みんなでなかよくあそんでね。早くふつうの生活になりますように。おうえんしているよ」―。運営本部にメッセージを添えたおもちゃを手渡すと、「これはうれしい。暇を持て余している子どもたちが喜ぶ」と言ってもらえた。
許可を得て、避難所の中を見せてもらう。体育館には十数人の姿があった。段ボールベッドの上で毛布にくるまっている人。額に熱冷ましのシートを貼り、せき込んでいる人もいる。ホワイトボードには、「隔離」の文字。インフルエンザなどがまん延しているという。
物資は豊富にあり、「なんでも相談所」や、罹災証明のこと、自動車税の減免などを伝える張り紙もある。屋外には給水車や仮設トイレのトレーラーもあった。共に大阪や京都、三重などからの応援で、他自治体の支援が入っていることが分かる。自衛隊による仮設の風呂も設置され、断水の中で住民に癒やしを与えていた。
ある避難者は、「本当にもう何もかもめちゃくちゃで大変だけれど、応援してくださる人がいるから何とか気持ちを保っていられる」と涙目で話していた。
駐車場の一角にコーヒーを無料で提供している車があった。岩手県釜石市から駆け付けたボランティアで、看板には「あの日のお礼です」「3・11」の文字。避難していた人が、「遠かったでしょう」と言うと、「はい。遠かったです」。互いに笑顔が生まれる。被災した地域同士の交流に心が温かくなった。
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21日、七尾市から北上し、穴水町を経て珠洲市に向かう。北に行けば行くほど道路の地割れが激しくなる。10㍍ほどにわたって陥落している道もあった。至る所でアスファルトが鋭いとげのように盛り上がっており、通常の速度で走行するとパンクする可能性が高く、常に気を張ってアクセルとブレーキを操作する。道が見えにくい夜間や降雪時は危険度がさらに高くなりそうだ。
運転に慣れていなかったり、応急修理ができなかったりする人の車がパンクすれば、渋滞を引き起こす。緊急車両の通行を優先するため、「能登に来ないで」という発信もうなずけた。
山道で丹波市消防本部の救急車とすれ違い、驚いていると、今度は丹波篠山市消防本部の救急車。心強さを感じると同時に、災害現場の第一線に駆け付ける人たちに改めて敬意を払った。
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珠洲市に到着。震度6強を観測した町は、南部と比べて圧倒的に被災家屋が多い。昨年5月にも震度6強の地震があり、蓄積されたダメージもあって約7600棟の家屋のうち、約3000棟が全壊したという。
珠洲市役所近くでは現実と思えないような光景が広がった。右を見ても左を見ても建物が崩れ落ち、民家の2階が道をふさぎ、頭上には電柱が今にも倒れそうな角度で傾く。息をのみながら歩き、海辺に出ると、思わず「ああ」と声が漏れた。民家の壁が抜け、ひしゃげた車が電柱に当たっている。広範囲にわたって散らばる家々の残骸。津波の爪痕だ。13年前、東日本大震災1カ月後に訪れた東北の沿岸部とそっくりだった。珠洲市には3㍍を超える津波が襲っていた。
同市を訪れたのは、発災直後に現地入りし、支援活動に取り組んでいる丹波篠山市京町の岩下八司さん(74)と合流するためだ(後日詳報)。岩下さんは、避難所から自宅に戻り、不自由な生活をしている人たちのもとへ水や食料を配っていた。
頼まれていた食料品のセットを在宅被災者のもとへ届けて回る。中には応急危険度判定で「危険」の赤紙を貼られ、電気も水も通っていない家で生活する人もいた。卵や納豆、能登の人が大好きな魚などを手渡すと、「ありがとうございます。本当にうれしい」と喜んでもらえた。
自営業を営む夫婦は、帳簿やパソコンが倒壊した事務所の中にあり、経理ができない状態を嘆く。「こんな目に遭っているのに、国は裏金問題。本当に腹立たしい」。女性の声が小さく怒りに震えていた。
岩下さんが懇意にしている地元の男性が、地震当時のことを話してくれた。「2分くらいは揺れたね。家から表に出ると、地面がふわふわとバウンドしているし、電柱はぐらぐら。立っていられなくて車につかまったけど、その車も跳ねるほど。いろんな所で叫び声が聞こえた」。話だけで背筋が寒くなる。
「まさかここに津波が来るなんてねえ。オオカミ少年じゃないけど、津波警報と聞いても、『また5㌢とか10㌢だろう』って言いながらみんなで避難所に向かって歩いていた。その時にはもう津波が来てたんだよね」
続く言葉に「え?」と声が出た。「みんな言ってたよ。『原発がなくてよかった』って。ここも福島のようになってた可能性があるんだからね」























