復興の先陣を 特産「能登かき」出荷し続け 夫婦の思い「また来て言えるまで」

2024.02.03
地域注目

能登復興の先陣にと、特産「能登かき」の出荷作業に励む山口翔太さん=石川県七尾市で

激震と津波が襲った能登半島地震。多くの建物が倒壊した石川県七尾市中島町で特産「能登かき」を養殖する山口翔太さん(28)と、妻の敦子さん(27)=兵庫県丹波市出身=は、息子で5カ月の大智ちゃんと被災。目の前で隣家が倒壊したほか、余震や断水が続いていることから、敦子さんと大智ちゃんは金沢市の親戚の元に身を寄せ、翔太さんは七尾に残って能登かきの復興に臨んでいる。「能登かきを出荷し続けることが復興への一歩」と信じ、能登への思いを熱く語る夫婦の元を訪ねた。

一家団らんの時 襲った激震

元日の一家団らんのひとときを地震が襲った。最初は体感で震度3か4程度。とっさに家の外に出ると、今度は立っていられないほどの揺れ。ごう音が響き、目の前で空き家だった隣の家が崩れてきた。偶然にも駐車場にあった小屋がストッパーになり、自宅までなだれ込んでくることはなかったが、道向かいにある家は2階が1階を押しつぶしていた。激震の中、夫婦は必死で大智ちゃんの小さな体を抱きしめた。

揺れが収まると、脳裏をよぎったのが「津波」。呆然としている近所の人たちにも声をかけながら、高台にある小学校まで避難した。自宅は無事だったが、隣家がさらに倒壊する恐れがあることから、応急判定で危険家屋になった。

始まった避難生活。水は止まり、停電も起きた。幼子を連れての生活は困難と判断し、敦子さんと大智ちゃんは翔太さんの母の実家がある金沢で生活することになった。

動画で情報発信 心無いコメントも「気にしない」

創業84年の「山口水産」4代目の翔太さんは今、断水が続く中でも「能登かき」の出荷作業に励んでいる。地震後すぐに出荷を再開しており、「能登はおいしい水産資源が豊富。一日でも早く今まで通りに出荷し、魅力を全国に発信することが復興につながる」と力を込める。

まるで湖のように穏やかな七尾西湾に山口水産のかき棚が並ぶ。山から運ばれる栄養が豊富で、ここで育つ能登かきはその甘さが特長だ。

津波により、「かき種」(かきの赤ちゃん)をつるしている竹が一部被災。必死の作業で流されそうになっていたかき種を救出した。出荷サイズまで育ったかき棚はほぼ被害がなく、今季、来季の出荷には問題ないことが分かった。

従業員の安否を確認し、すぐに出荷を再開。断水が続いているため、むき身は出荷できないが、殻付きの状態での出荷を始めた。被災で漁業がままならない漁師もいる中、「自分たちだけ売っていいのか」という思いはありつつも、従業員に給料を支払うことはもちろん、能登の漁業の復興の先陣を切るための出荷だ。

「かき漁師 しょうた」としてユーチューブ(動画共有サイト)で、調理法など能登かきの魅力を配信していた翔太さん。地震当日の夜から中島町の現状を発信し始めた。輪島など、より甚大な被害があった場所と比べて中島町の報道が少ないと感じたためで、市外の親戚などに代わって安否確認をしたり、町の様子を届けたりする必要があると思ったからだった。

また、出身者やボランティアの車両が殺到することで渋滞が発生し、救助に支障を来すことが懸念されていたことから、「気持ちは分かるが、皆さんの不安を解消できるように撮影するので、ぐっとこらえて家で待っていて」と呼びかけ続けた。視聴者からは、「この場所の現状が知りたい」「この人の安否が知りたい」などの声が寄せられ、これまでに50人ほどとやり取り。「やって良かった」と語る。

「地震を使ってお金稼ぎができてよかったね」などと心ないコメントもあったが、「入っても数百円。その人のストレス発散になったなら良かった」と苦笑いし、「全てが喜ばれるわけではないから気にしていない」。

高齢化が進む能登だが、「若者が離れていかないようにするには産業がないと。そのためにも能登かきの出荷を止めるわけにはいかない」と語るほど能登への愛情が深い。その源は「人」。「地震当日の避難所でもきちんと奥から並べて車が止めてあった。自分も被災しているのに、他の人のために動いている人もいた。全て祭りを通してコミュニティーができているからかなと思う」

祭りと人に「ほれ込んだ」妻 「かっこよすぎた」

能登森林組合に就職し、林業に従事していたころの敦子さん=石川県穴水町で

翔太さんが言う「祭り」にほれ込んだのが妻の敦子さん。地元・兵庫県丹波市の柏原高校を卒業後、東洋大学に進学。4年生時に休学し、丹波で生かせるまちづくりを学ぶため、実践型インターンシップ「能登留学」を行っている七尾市のまちづくり会社を訪れる。

美しく、豊かな里海と里山。苦手だったのに、いくらでも食べられるようになった能登かきをはじめとするおいしい食材。そんな能登に触れるたびにどんどん好きになっていった。

決定的だったのが「祭り」。能登はほぼ一年を通してどこかで祭りが営まれる。訪れた頃はちょうど巨大な山車「でか山」が練り歩く「青柏祭」の時期で、そのスケールの大きさと、口をそろえて「祭りが好き」という住民の姿が、「かっこよすぎた」(敦子さん)。

「まちを出た人たちも、盆暮れより祭りに帰ってくる。そんな人々に心を打たれてしまって。丹波のためにまちづくりを学びに行ったら、能登にほれ込んでいた」

ただ、能登一円の住民が参加する「キリコ祭り」(能登固有の意匠を施した風流灯籠「キリコ」を担いで練り歩くもの)では、里山が荒廃し、キリコに使う木が地元で調達できなくなっていることを知った。

1000年伝わってきた祭りが地元の木で続けられなくなっている状況に衝撃を受けた敦子さん。おいしい海産物の源は、山から海に流れ込む栄養でもあることから、林業に関心を持つようになり、能登留学を終えて大学を卒業後、能登森林組合に就職し、チェーンソーを手に山に入った。

「能登に行ったから、山が季節を感じさせてくれたり、祭りに必要だったりと、大事な存在だと気づかせてくれたので、能登で林業をしたかった」

しばらくして翔太さんと出会った。漁業と林業。共に1次産業に従事している若者は意気投合し、2年後に結婚、大智ちゃんを授かった。そんな幸せな家庭に地震が襲いかかった。

「職場が穴水町。輪島の朝市にもよく行った。自分が大好きな人たちの姿が浮かぶ場所がことごとくやられた。安否不明者の中にも知っている人の名前がある。自分の目で被災した場所を見ると絶対泣いてしまう。(翔太さんと)二人で今年から一緒に森づくりをしようと言っていて、これからいっぱい夢があった」

思い出が脳裏をかすめるたび、敦子さんの声が震える。だからこそ、誓う。

「実家の丹波まで避難することも考えたけれど、私は能登が大好き。そして、能登の人たちは前を向いて頑張っています。また胸を張って『能登に来て』と言えるようになるまで頑張りたい」

心温まるメッセージが原動力

地震で離ればなれになりながらも、久しぶりに再会した山口さん一家=石川県金沢市で

1月22日、翔太さんは久々の入浴も兼ねて金沢を訪れ、妻子と再会した。眠そうにあくびをする大智ちゃんをいとおしそうに見つめる二人に笑顔があふれる。敦子さんは、「離れて過ごしているけれど、週末には夫やお義父さん、お義母さんが金沢に来る。本当にうれしくて、こんなにも家族って大事なんだと身に染みている」とほほ笑む。

復興支援の意味も込めてか、能登かきは順調に売れている。敦子さんは、「友だちが職場の人にも呼びかけてかきを買ってくれたり、『できることがあったら言って』と言ってくれたりする丹波の人や知人がいることが心の支え」と感謝し、「今は息子を守ることが一番。たくさんの人の助けを借りながら、頑張っていきたい」と話す。

翔太さんも、「本当にありがたくて、注文の時に頂く心温まるメッセージの一つひとつが原動力」と言い、「まだまだ大変だが、皆さんの協力のおかげで一日一日、前に進んでいる。能登かきを出荷し続け、石川県や被災した人々に勇気を与えられる存在になりたい。ぜひ復興したらおいしい海産物を食べに来てほしい。それが願い」と呼びかけている。

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