兵庫県丹波市の春日文化ホールで開かれた「社協ふくしまつり」(同市社会福祉協議会主催)の中で、認知症の高齢の母を介護する父の暮らしを描いたドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」を手がけた信友直子監督が、「認知症が私たち家族にくれた贈り物」を演題に講演した。約350人が来場し、認知症への向き合い方のヒントを得た。信友監督と父に、認知症の母からもたらされた”贈り物”とは―。要旨をまとめた。
◆介護奮闘の93歳父 「優しく良い男」
85歳で認知症と診断された母は「スーパー主婦」だった。掃除に洗濯、料理と、何もかもが完璧だった人が、いろんなことができなくなった。すると、93歳の父が、今までまったくやったことのなかった家事を肩代わりし始めた。母は「なんでこんなこともできなくなったんだろう」と悔しがった。父はそれに気づき、あえて芝居を打った。
例えば、洗濯をするときに鼻歌を歌うようにした。すると、「ほんまは洗濯するのが好きなんかも」と母の気持ちが軽くなった。父はそんな気分ではなかったと思う。でも芝居を打ち、少しでも母の申し訳なさを取り除いた。
母は「家族に迷惑をかけてしまう」と悩んでいた。父は「病気やからしょうがない。大事なことを聞いたと思ったら、すぐわしに言いにきんさい。わしが覚える係をする」と言った。母は「頼りにしとるけえね」と返した。すごくかわいらしい老夫婦になっていた。認知症で苦しむ人の気持ちが晴れるよう、相手の気持ちを想像した声かけが大事。
二人を観察し始めると、思った以上に父が良い男だと気づいた。自分の伴侶がピンチに陥ると、優しく手を差し伸べられる。母が認知症にならなかったら、父のことはずっと無視していた。これは、認知症が私にくれた贈り物だと思う。
認知症をいくら嫌がり、目を背けても、治るわけではない。認めた上で、よくよく探せば良いこともあったはず。良かったことに目を向け、それを大切にするのは、認知症とうまく付き合う方法だと思う。
◆力借りずいらいら 症状進み無表情に
介護する家族が機嫌よく暮らすための結論は一つ。家族だけで介護を抱えないことだ。母が認知症になった後、父は「わしの女房じゃけえ、わしが面倒をみる」と言い張り、2年間頑張った。けれど、90代の父は1人でやるからくたびれる。また、耳が悪いから一日中、母の動きを目で追っていた。本や新聞を読むのが好きなのに、自分の好きなことを何もできず、いらいらし始めた。
父は母を家の外に出さなくなった。引きこもり状態になった母には、耳が遠い父しか話し相手がいない。会話が成立せず、「お父さんは私がおかしゅうなっとるから、ばかにしとる」と被害妄想を持ち、口を利かないようになった。認知症は進み、無表情になった。
私は父に内緒で、地域包括支援センターに相談した。「戦前、戦中生まれは、人の世話になるのが恥になると思っている人が多い」と言う。「お任せください」と、父を口説いてくれた。プロなので、頑固なお年寄りを口説き、介護サービスにつなげるためのさまざまな引き出しを持っている。2回目の訪問で、父は「介護を受ける」と言ってくれた。もう少し前に相談に行っていれば、という後悔がある。
◆支援受け表情変化 家族に笑い戻る
サービスを受ける前と後で、母の表情はまったく変わった。元々社交的な人。デイサービスで他の利用者と歌ったり、ゲームをしたり、おしゃべりしたりして笑顔が戻った。デイサービスに行ったら、たまたま母と同じ女学校出身で、認知症のおばあさんがいた。毎回、「○○小学校出身で」という自己紹介から始まり、「女学校あるある」で盛り上がる。すると、母は「あれも覚えている」「これも覚えている」と、自信が戻り、認知症になる前のようなしゃきっとした状態で帰ってきた。認知症になっても外に出て、社会と触れ合うのは大事。
頑固だった父も介護サービスを受け始めると、自分の娘ぐらいの年齢のヘルパーさんを、すごくかわいがっていた。料理も得意なヘルパーさんで、二人の食欲がわき、ふっくらした顔になった。笑い話がある。ヘルパーさんがおでんを炊いてくれた。父はそれがあまりにおいしく、「二日に分けて食べよう」と、半分を台所に置いておいた。すると、夜中に起きた母が全部食べてしまった。鍋をきれいに洗い、伏せておいた。
次の日の朝。父が台所に行くと、おでんがなくなっていた。「おっかあが食うたんか」と聞くが、何時間もたっているので、母は覚えているはずもない。父が「おいしいおでんじゃったのに、おっかあがみな食うた」と、私に電話をかけてきた。母は「私は知らんと言いよるじゃろ。お父さんがぼけたんじゃない」と叫んでいた。
信友家に笑いが戻ってきた。私と父が笑っているので、母もほっとした顔をしていた。そのとき、この笑いがないから母はつらかったのでは、と思った。「二人が笑っているから、ここにいても許される」と思ったのでは。ヘルパーさんという社会からの「風」が生まれ、私たちも気持ちに余裕ができた。
◆母の症状明かし 優しかった周囲
日本人は家族が介護をするのを美談と捉えがち。例えば、1人娘が実家に帰り、認知症の母の面倒をみる。すると、近所や親戚からは、親孝行だと受けが良いと思う。けれど、もし私が1人で介護をしていれば、つらく当たってしまう自信がある。無理をせず、他人に甘えながら介護をするのが大事。地域、近所の人にも情報をシェアする。
母が認知症と診断されてから2年間、近所にも隠していた。デイサービスの車が家の前に止まることでばれると思い、2年たって初めて近所に言った。「偏見があるかも」と思っていたけれど、みんなから「たまたまあんたのお母さんがなったけれど、次はうちの親がなるかも。そのときはあんたに頼む。何かあったら何でも助ける。お互いさま」と言ってもらえた。心強かった。
子どもの頃から親しいおばさんからは「『おかしくなっているのでは』とずっと気にしていた。けど、隠している人に『あんたのお母さん、認知入ってるんじゃない』とはよう言わん。言ってくれたから、これからは助けられる」と言ってもらえた。人生100年時代。誰が認知症になってもおかしくない、とみんなが思っているのだろう。
◆脳梗塞で倒れ 延命治療に悩む
やがて、母は脳梗塞になり、倒れた。喉の筋肉が駄目になり、口から物を食べられなくなり、(医療措置の)胃ろうを迫られた。母は延命治療をしたいのだろうか、最期はどこで過ごしたいか、延命治療はどこまでやりたいか―。縁起でもないと思い、親も子も口にできない。
決断を迫られたときに初めて「聞いておけばよかった」となった。結局、父と私で決めるしかなかった。どんな状態でも一日でも長く生きてくれたら、私と父の心の支えになると思い、胃ろうをしようと思った。
けれど、「これで良かったのか」と寝られないときもあった。元気なうちに母の意向を聞いておけば、後から悩むことはなかった。元気なうちに人生の最期をどうしまうか考える「人生会議」を、家族や主治医らでしておくことを勧めたい。
◆父感謝「ええ人生」 母の目からは涙
母はコロナ禍の中で旅立った。私は東京を引き上げ、実家の呉に帰れていた。父も私も毎日、母と短時間の面会ができた。母は楽しいことが好きな人なので、私は一日1個、母との楽しかった思い出を話すようにした。「覚えてる?」と聞くと、手をぎゅっと握ってくれた。信友家の歴史を家族でたどれる、宝物のような時間だった。
ある日、先生から、「今までは面会時間が15分だったけれど、今日は夜までいてあげてください」と言われた。私も父も覚悟した。
それまで、母と私の話を聞いてばかりだった父が、「今までありがとね。あんたが嫁になってくれて、ほんまにええ人生じゃった。感謝しとるで」と声をかけた。顔が青白くなっていた母の目から涙がすっと流れた。父はまた、「もうちょっとのお別れ。わしもすぐ行くけえ、あの世の入り口でちょっと待っとってくれ。あの世で仲良く暮らそう」と声をかけた。
そんな二人を見ていると、娘として生まれてこられて幸せと感じた。人が亡くなるのに悲しいだけでなく、幸せな気分になれたのが不思議だった。
ある方が私に言ってくれた。「介護は親が命がけでしてくれる最後の子育て」と。その通りだと思う。母は2020年の6月に亡くなった。
◆社会に甘えて かわいい年寄りに
3年半がたったが、父は今でも元気。103歳になった。母が亡くなっただけだとショックだったと思うが、その頃に映画がヒットし、有名人になった。町を歩いていると、「お父さん」と皆さんに声をかけてもらい、もてはやされるようになった。それが父の新しい生きがいにもなった。103歳の誕生日には、世の中で一番好きな食べ物というファミレス「ココス」のハンバーグを完食していた。
103歳の今も週に1回は運動している。負荷を上げたエアロバイクをこいでいる。クリニックのリハビリルームに来ている70、80代のお年寄りは「103歳のお父さんが頑張っている。私らが年とは言えない」と、利用者の全体的な健康レベルが上がっているそう。100歳のおじいさんとも仲良しで、お互いがお互いより長生きできることを目指している。刺激になっているようだ。
家の中でも運動をしている。普段はベッドではなく、布団で寝ている。「布団だったら、寝ている状態から起き上がる。これが全身運動になる」と言う。「今できることをやり続ける」とも。
父は社会に開かれ、「かわいいお年寄り」になっている。この間も名言を言っていた。「年寄りにとっての『社会参加』は、社会に甘えることだと気付いた」と。それを実践している。かわいらしい、元気なお年寄りでい続けるのが元気の秘訣。
今、父が元気でいるのは、母にとっても喜びだと思う。私も、母から父を託されたと思っている。できるだけ長生きさせたい。私が天国に行ったときに「すごいじゃろう」と、母に胸を張って報告できるように。