今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は谷口節子さん(94)=兵庫県丹波市柏原町挙田=。
「食もとめ母と野宿の終戦日」―。94歳になった今年、「母」をテーマにした俳句で、選者賞に選ばれた1句。終戦ほどない女学生の頃、親戚から麦を分けてもらうため、福知山まで母と汽車で出かけた日のことをよく覚えている。
柏原駅から汽車に乗り、引き揚げ兵でごった返す福知山駅で一晩を明かした。翌日訪ねた親戚宅で出された「真っ白なごはん」がとてもおいしく、「おかわりしたいと思ったが、母がいかんいかんと止めたので、1杯しか食べられなかった」。麦の袋を4つリヤカーに載せて福知山駅まで運んでもらい、兵士であふれかえる汽車に乗り込んだ。
軍医だった父、清太郎さんは、日中戦争第1回目の召集令状で中国へ出征。村中の人が新井神社に集まり、日の丸の旗を振って見送ってくれた。別れる時、父から声をかけられ、ふいに寂しくなって涙がこぼれた。それを見ていた担任の先生が、手を引いて学校まで連れて帰ってくれた。小学1年生の時だった。きょうだいは姉と2人で、父の留守中は祖父が代わりをしてくれた。
柏原高等女学校では、勉強の代わりに山行きばかりがあった。鐘ヶ坂まで行って木を切り、2人がかりで担いで持って帰った。学校前の傾斜地に木を並べ、草をかぶせて「防空壕」を作ったこともあった。兵士の武運を祈って縫う「千人針」が、授業中によく回ってきた。上級生たちは学徒動員で工場へ駆り出された。
父はいったん帰国したが、太平洋戦争で再び召集され、今度は南方へ出征していた。
挙田地区の婦人会長を務めていた母は、着物に白いエプロン、「国防婦人会」のたすきを掛け、戦地へ送る慰問袋を作りに出かけた。
また、父の無事を祈り、大雪の日も雨の日も毎日、地元のお宮さんへお参りを欠かさなかった。萱刈峠を越えて、氷上町の立石不動尊へ何度も一緒に願掛けに行った。「赤井野でグライダーの練習をしていた所を横切って行った。飛行機にゴムを付け、両方から引っ張って飛ばしていたのを見た」
願掛けのかいもあってか、終戦から2年ほどたって父は帰還した。「父が帰ってきて、あんなにうれしいことはなかった」。長崎の佐世保から電報が届いており、近所の人が集まって出迎えてくれた。父が戦地にいる間に姉が結婚。生まれていた幼子を早く父に見せようと連れて行ったのを覚えている。
父はビルマからシンガポールを経由して、佐世保に帰還した。帰国時は6人の兵を連れており、「何とか日本の土を踏ませてやりたい」との思いで、2カ月にも及ぶ長旅を乗り越えたという。
「ビルマでは、大きな川で流された。亡くなった兵が大勢いたが、私はインドの人に引き上げてもらい、助かった」と話していたそうだ。生きられるかどうかの厳しい状況を幸いにもくぐり抜けることができたのだろう。その後、ビルマで病院の仕事を手伝っていたと聞いた。
近所には、男子3人が全員戦死した家もあった。「誉の家」と書かれた札が掲げてあったが、本心からそう受け取る人はなく、気の毒だという思いしかなかった。
「何で戦争をするのか。街も何もかもつぶれてしまう。災害は防ぎようがないが、戦争は話し合いなどで回避できるはず」。世界のあちこちで繰り返される戦禍に、もどかしい思いを抱えている。