怖かったサイレン、焼夷弾 行き場ない人の光景、今も 戦後79年―語り継ぐ戦争の記憶⑧

2024.09.18
丹波市地域地域

戦争の影響を受けた小学生時代を振り返る足立さん=兵庫県丹波市氷上町香良で

今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は足立靖子さん(86)=兵庫県丹波市氷上町香良=。

1937年、神戸市灘区に生まれた。小学校に上がった頃は、空襲に対する警戒警報、さらに空襲警報と二段階でサイレンが鳴った。毎日、防空頭巾を肩から下げて登校。警戒警報が鳴ると、配給のコッペパンを半切れずつもらって急いで下校し、空襲警報が鳴ると、防空壕に避難した。その頃、防空壕はどの家にもあり、自宅から少し離れた山の入り口にもあった。

記憶では、毎日のようにサイレンが鳴り、授業らしい授業はほとんどなかった。そのサイレンの音と、防空壕の中で空襲が治まるのを待つ時間、焼夷弾がふらふらと風船のように落ちていく様子がただただ「怖かった」。空襲が激しくなると、集団疎開が進み、級友の数も半分以下になっていた。

足立さんの家族もいよいよ父の実家がある丹波市氷上町小谷へ疎開することになった。先に母と2つ下の妹、生まれたばかりの弟が行き、しばらくして祖母と一緒に丹波へ向かった。小学1年生の3学期、柏原八幡宮の厄除大祭が開かれる2月18日のことだった。柏原駅からの交通手段がなく、小谷まで歩いたのを覚えている。

祖母と丹波へ向かう途中で、今の阪急西宮北口へ降り立った時、負傷した兵士や行き場を無くした人たちであふれていた。その光景が頭から離れず、当時の神戸市と西宮近郊を舞台にした映画「火垂るの墓」は今でも見ていられないという。

父はもともと西宮市で教師をしていたが、疎開で生徒がいなくなり、鉄工所を興したり、新聞社で働いたりしていた。家族が皆無事に実家へ疎開すると、父はすぐに篠山の「歩兵第七十連隊」に入隊した。

幸世小学校(現・北小学校)に通い始めると、グラウンド(現在の大塚病院側)に防空壕があり、神戸との違いを感じた。「疎開っ子」といじめられたこともあった。グラウンドを畑にし、サツマイモを育てていた。

45年8月15日、家族でラジオを囲んで玉音放送を聞いた。父に満州へ出征する辞令が下った翌日に終戦。篠山からすぐに帰ってきてくれた。幼かったこともあり「終戦というより、とにかく食べ物がなかったという印象が強い。イモばかり食べていた」と振り返る。小学校3年生の時に母が他界。母親代わりとして苦労を重ねた。

21歳で香良へ嫁いだ。「世話好き」の性分で、一人暮らしのお年寄りを支えるボランティアなどを長く続けた。「人と人のいさかい話を聞くのも嫌。戦争は二度と起きないでほしい。もし今、戦争が起きたらどうなるか、と考えると怖い」

関連記事