兵庫県丹波篠山市仏教会が、四季の森生涯学習センターで仏教講演会を開いた。比叡山の荒行「十二年籠山行」の戦後6人目の満行者で、延暦寺観明院住職、宮本祖豊さん(65)=滋賀県=が、「比叡山の修行について」と題し講演。日本の天台宗の宗祖、最澄の墓所である同寺浄土院で、最澄に仕える籠山行を20年間務めた宮本さんが語る命懸けの修行や最澄の教えなどについて、詰めかけた市民約240人が静かに聞き入った。要旨をまとめた。
十二年籠山行は、比叡の峰々を踏破する「千日回峰行」に並ぶ難行。天台宗では、最澄は亡くなったと考えていない。平安時代の人物なので当然、肉体は滅しているが、魂は今も生き続けていると考えている。籠山行とは、最澄があたかも今に生きているように12年間、比叡山から出ることなく浄土院に仕える行のこと。12年を過ぎても後任と交代するまで行は続くため、私の行は20年間続いた。
1994年8月、34歳の時に籠山行に入るために行われる「目の前に仏を見る」修行「好相行」に挑み、2度のドクターストップを乗り越えて満行した。
好相行は、「仏名経」に説かれてある過去・現在・未来の三千仏の名を唱えながら、地にひれ伏す五体投地を毎日3000回、眠ることも横になることもなく続ける行で、毎日15時間にも及んだ。
最澄は厳しい修行の末、悟りを開いたことから、最澄に仕える僧侶も心を清めないと仕える資格がない、として行われる行で、礼拝することで心が清まっていく。完全に清まったら目の前に仏様が立つという。通常、3カ月くらいで仏を見る、と言われていたが、私の前には一向に現れなかった。
疲労困憊で9カ月後、ついにドクターストップがかかった。しかし、一度やり始めたら決してリタイヤができない「行不退」の掟がある。3000回を1000回に減らしてもらって体力の回復を待ち、11カ月後、再び3000回の行に戻った。
冬はマイナス15度の中での礼拝行。手足の感覚はなくなり、乾燥で皮膚が裂け、出血した。意識がもうろうとなり、2度目のストップ。死を覚悟したが、9日後に再開。1997年2月4日、600日過ぎの修行の果てについに「仏を見た」。37歳、浄土院に入るための前行を満行した。
十二年籠山行では毎日のスケジュールが決まっていた。早朝3時半に起床し、お勤めをした後、最澄への献膳。阿弥陀仏への供養などの後、午前10時に最澄への昼の献膳があり、午後4時に夕方のお勤めや仏教の勉強、座禅などをして10時ごろ就寝する。
食事は献膳のおさがりで一汁一菜。かゆや漬物、佃煮、野菜の精進料理を、ほかの修行者などと分け合って食べた。昼の食事の後、次の日の朝まで18時間、食事はない。
食事の後は徹底的に掃除をする。5時間ほどかける。秋の落ち葉の多い時期には7時間にも及んだ。「比叡山の三大地獄」と呼ばれているものがあり、一つはこの「掃除地獄」。ほかに「回峰地獄」「看経地獄」がある。
365日、一日も欠かさず、毎日同じ時間に同じことを12年間続ける。「継続は力なり」。毎日同じことを行うことで悟りに近づくという最澄の教えは、1200年たった今でもしっかり受け継がれている。
比叡山延暦寺は、古都京都の文化財の一つとして1994年に世界文化遺産に登録された。延暦寺の建物は織田信長の焼き討ちに遭ったため、全山の建物の9割以上が徳川家光の再建によるもの。400年前のこと。この程度の年月では普通、国宝にはならない。しかし、建物だけではなく、生きた最澄の精神、十二年籠山行、千日回峰行が今に続いている。これを理由に世界文化遺産に登録された。
最澄は籠山行を通して、どんな人づくりをしたかったのか。最澄が著した仏教書の一つに天台宗の僧侶養成のための教育方針と規則をまとめた「山家学生式」があり、その中に「一隅を照らす」という言葉がある。現在、天台宗の運動の標語にもなっている。一隅とは、皆さんが今置かれているポスト。それぞれの場所で最大限に努力する、ベストを尽くす。そのことでその人の持ち味が光ってくる。その一人ひとりの小さな光を合わせることで日本中が、世界中が明るくなる。
好相行という心を清めるための修行をした。100日ぐらいで終わると言われていたが、私には何年やっても難しかった。その時に自分に足りないものは何であろうかと考えた。厳しい行に入れば入るほど、自分の心が大きな価値を見出してくる。その心の徳が少なかったことに初めて気がついた。
現在、体調は万全とは言えない。還暦の頃にがんが見つかり、闘病中だ。死を意識させられ、さらに自分自身の一生、内面というものを再び見つめ直していると、つくづく自分の徳の無さを感じている。多くの人に徳を積んでいただきたい。そして豊かな人生を歩んでいただきたい。



























