フィリピンにルーツをもち、兵庫県丹波篠山市にある篠山国際理解センターの学習支援活動を通じて日本語を学んだ篠山産業高校のマリアーノ輝雄さん(3年)が、このほど開かれた在住外国人や支援者らが集まる「秋のつどい」(同センター主催)で、言葉の壁を乗り越えるまでの心の移ろいや気づきを振り返ったスピーチを行い、来場者の感動を呼んだ。多感な時期の心のはけ口となった支援員との絆が学習意欲を育み、背中を押した。来春から愛知県の会社に勤め、社会人となる輝雄さん。「自分には日本語が学べる環境があった。いつか丹波篠山に戻って、外国の子どもたちをサポートしたい」。関係者にとって最高の言葉で締めくくった。
輝雄さんは同県丹波市生まれ。5歳まで過ごした後、体が弱かった妹とフィリピンへ移住。9歳(小学3年)で再び丹波(丹波篠山市)へ戻った時には、日本語がほとんど分からなくなっていた。友だちが何を話しているか分からず、自分からも話せない。「取り残されたような気持ちになり、悔しかった」
通い始めたのが、同センターが外国につながる子どもたちの学習支援を行う「うりぼうくらぶ」。岡野文化会館で週1回、日本語や宿題のサポートをしている。
支援員の松田由香里さん(61)は、「『自己紹介をして』と言ったら大泣きして。日本で生まれたと聞いていたので、できると思ったが、彼にとってはどれほど緊張し、怖かったかと気づかされた」と、印象的な出会いを振り返る。
輝雄さんは、悔しさをばねに必死で日本語の勉強を始めた。ひらがなの「あ」行から、「まるで赤ん坊のように一からやり直した」。「もうやめたい」と思ったことは何度もあった。支えたのは松田さん。輝雄さんは「母親のような存在。勉強から逃げかけた時も『君ならできる』と勇気づけてくれた」と感謝する。
松田さんは、指導よりも居場所としての役割を重視しているという。心の中にいろんなものをためた子どもたちが、それをはき出せる雰囲気づくりに努めた。「雑談の中で信頼関係を築いた。心の内を伝えたいという思いが、日本語を学ぶモチベーションにもなる」
輝雄さんは、小学校卒業までの3年間、通い続けた。1年もすると、友だちや先生とコミュニケーションが取れるようになったが、「もっと流ちょうに日本語が話せるようになりたい」と意欲的になっていった。
経験から学んだことは二つ。一つは、「分からないからこそ自分から動く」。難しい漢字や言葉に出合うと、インターネットや辞書で調べたり、恥ずかしがらずに先生に聞いたりもした。
二つ目は、「コミュニケーションの大切さ」。最初は単語を並べるだけだったが、会話を重ねるうちに「次はどんな言葉を使おうか」「どう話したら相手に伝わるか」と考えた。「日本語は単なる『言葉』ではなく、人との『つながり』になった」と言う。
スピーチでは、「思うようにいかず、くじけそうになることもあるだろう。でもどうか諦めないで。『分からない』を恐れず、『難しい』から逃げずに一歩踏み出してほしい。その一歩が未来を変える大きな力になる。私の話が、皆さんの挑戦のきっかけになれば幸い」と語りかけた。
輝雄さんは、中学へ進み、部活動などで忙しくなっても、夏休みなどには「くらぶ」に立ち寄り、高校へ進学後も時間を見つけて、“後輩”たちの面倒を見ている。
松田さんは、「努力の子だった。自分たちは応援するだけ。彼に教えられることが多く、自分も負けられない。『いつか帰ってくる』と言ってくれた。『くらぶ』をつないでいってくれたらうれしい」と涙をぬぐった。




























