途絶えた交流、再び紡ぐ 「僕のこと分かりますか?」 消息不明20年、突然現れた留学生

2025.12.13
丹波市地域地域

37年前にホームステイをした中井家でくつろぐチャイさん(右手前)。弘明さん(前列中央)と京子さん(左)や、家族と交流した=兵庫県丹波市市島町上鴨阪で(弘明さん提供)

「僕、分かりますか?」―。11月7日の昼下がり、兵庫県丹波市市島町の中井弘明さん(84)宅に、ある中年男性が訪れた。応対した中井さんの妻、京子さん(77)は、見知らぬ顔に「分からへん」と素直に返事。ところが、この男性、見た目はすっかり変わっていたものの、中井さん一家にとって深い絆で結ばれたマレーシア人。37年前、中井さん宅でホームステイをし、日本の文化や暮らしを体験した。その後も頻繁に連絡を取り合い、何度も宿泊に来たり、中井夫妻が彼の母国まで会いに行ったりと、交流を密にしていたものの、20年ほど前にぷつりと音信が途絶えた。中井さん一家が「もう亡くなったのかも」と諦めていた「その人」が、突然、目の前に現れた―。

チャイ・キーナンさん(58)。かつて旧市島町で展開された、海外からの留学生を受け入れて町民と交流する事業「あぜみち交流」の初回だった1988年(昭和63)、中井さん宅で10日間のホームステイを体験した。

「チャイです」―。チャイさんは、京子さんに名前を伝えた。吉兆だったのか、京子さんは数日前、知人と「チャイ君、どうしとるんやろねぇ」という会話をしたばかり。しかし、目の前の男性は、記憶にあるチャイさんと見た目が大きく違っていて、にわかには信じられない。返す刀で答えた。「うそや」

チャイさんはスマートフォンで1枚の画像を見せた。20人が写った集合写真。そこには37年前の京子さん、弘明さん、チャイさんも写っていた。あぜみち交流で、留学生を受け入れた数家族と共に食事をした際に写した一枚で、中井家にもある写真だ。京子さんはようやく合点。「チャイ君、生きとったんかー」

◆絆結ぶも途絶えた交流

養鶏業を営んでいた弘明さんは、養鶏仲間と共に留学生の受け入れに手を挙げ、関西大学に留学していたチャイさんがやって来た。とりわけ、中井夫妻の長男で、当時、小学生だった健さん(46)がチャイさんになついた。

ホームステイが終わってからも、チャイさんは長期休みになるたびに中井家を訪れた。中井夫妻がマレーシアを訪問し、チャイさんの案内で同国内を巡って観光を楽しんだこともあった。

深い絆で結ばれていたはずの関係は、突然、途絶えることになる。20年ほど前、それまで頻繁だったチャイさんからの連絡が一切なくなった。心配になった中井夫妻は、電話をかけたがつながらず、送った手紙も舞い戻って来た。

チャイさんとの連絡が途絶えたのは、スマトラ島沖地震が発生した頃。マレーシアでも被害があり、中井一家は「地震で亡くなったのかもしれない」と話し合い、悲しんでいたという。

チャイさんにも、連絡を取りたくても取れない事情があった。数カ国語を操るチャイさんは、エネルギー関連の仕事で世界を飛び回り、住まいを転々とし、忙しさで連絡できなかったという。

◆「無事やったんか、生きとったんか」

チャイさんが20年以上ぶりに日本にやって来た目的は、放浪の旅。仕事が落ち着き、思い出が多い日本に足を運び、懐かしい中井家を訪問することにしたという。

四国を旅した後、チャイさんは電車で丹波市の市島駅に到着。そこにいた人に弘明さんの名前を伝えて自宅に行きたい旨を話したが、歩いて行けるような距離ではないと伝えられたという。

仕方なく再び電車に乗り、隣の福知山駅(京都府福知山市)へ。そこでレンタカーを借り、記憶を頼りに中井家を目指した。「八日市交差点」を覚えており、そこから農作業をする人に声をかけては道を聞き、ようやく中井家にたどり着いたという。

デイサービスに出かけていた弘明さんが帰って来た。弘明さんは「チャイ君かどうか、半信半疑やったから、ポカンとしていた」とほほ笑む。

握手をした二人。弘明さんは涙がこらえられなかった。「無事やったんか。生きとったんか」

夜は急きょ、焼き肉パーティーに。近況などを語り合ううちに夜が更けていった。2日目を迎えると、チャイさんは健さんの職場に行きたがった。かつて交流を深めた「弟」が、どんな仕事をしているか目に焼き付けるためだったという。

3日目の朝、市島駅発の電車で丹波市を後にしたチャイさん。弘明さんは「こんな再会の仕方があるなんて。奇跡や」と目を細め、「懐かしかった。あぜみち交流で人生が豊かになった」と話す。京子さんは「私たちを忘れることなく、また来てくれたことがうれしい」と笑顔を見せた。

中井家は、チャイさんと連絡先を交換し、交流を再開することを約束。再び交流が途切れることのないように。

関連記事