兵庫県篠山市火打岩の県道301号線にかかる打見橋の架け替え工事中、 アスファルトの下から、 1926年 (大正15) に開山した 「畑鉱山」 から硅石 (けいせき) を搬出していたトロッコのレールが見つかった。 篠山市で初めて硅石が発見されてから、 今年でちょうど100年。 畑鉱山や鉱山労働者の足跡調査を行っている関係者らは、 「篠山の鉱山史を考える上で貴重な史料。 実際に物が出てきたことで、 鉱山やそこで働いていた人のことを身近に感じることができるのでは」 と話している。 レールは地元住民らによって保存される予定。
発見されたレールは、 全長約11・5メートル、 幅5メートルの打見橋に沿い、 橋の中央から東側寄りに敷設されていた。 鉱山から掘り出された硅石を選別した選鉱場から約4キロ下った同市瀬利までを結んでいたトロッコのレールの一部とみられる。
関係者によると、 時期は定かではないが、 運搬がトロッコからトラックに変わったころに埋められた可能性が高いという。
レール発見後、 関係者らの間で保存に向けた機運が高まっており、 地元の 「みたけの里づくり協議会」 が、 地域の歴史を伝える遺産として保存する計画を立てている。
鉱山とそこで従事していた在日コリアンの足跡を調査し、 まとめた 「デカンショのまちのアリラン」 (編=篠山市人権・同和教育研究協議会) によると、 市内では、 1913年 (大正2) ごろに大芋地区で硅石鉱山が見つかったのを皮切りに、 畑地区でも20年に鉱脈を確認。 26年から官営八幡製鉄所 (福岡県北九州市)の直営鉱山として本格的な採掘がスタートした。
第二次世界大戦以降、 硅石の需要が増大。 20年代からの60年間、 市内23カ所で300人を超える日本人や、 朝鮮から移住や強制連行でやってきた人々が働き、 活況を誇った。 しかし、 需要の減少などに伴い、 71年ごろから閉山が相次ぎ、 日鉄鉱業畑鉱山、 丹波鉱産株式会社として存続していた畑鉱山も79年 (昭和54) に閉山した。
一方、 畑鉱山の開山後、 山からふもとまで珪石を搬出するためのトロッコ整備に伴い、 33年に架けられたとされる打見橋。 木橋が当たり前の当時にあって鉄が使用されていることに畑鉱山への期待の高さがうかがい知れる。
また橋の構造は鉄道橋に使用されることが多い 「トラス式」 を採用していることから、 現在は道路として使用されている橋にかつて鉄道が敷かれていたことを伝えている。
トラス橋自体も歴史を物語るものであり、 篠山産業高校土木科の原田裕史教諭らが10分の1の模型を製作。 原田教諭は、 「下りはトロッコに乗り、 上りは手で押していた。 右利きの人が多かったため、 トロッコが持ちやすいように東側に寄っていたのでは」 と推測する。
工事を行った石井造園緑化株式会社 (東吹) の石井祥平社長は、 「レールが出てきたことで鉱山などの歴史に興味がわいた」 と話していた。
【硅石】ケイ酸質の鉱物や岩石を資源として扱う時の鉱石名。 ガラス、 耐火レンガ、 セメントなどの原料になる。 篠山産のものは質が高く、 製鉄所の炉材用レンガとして使用された。