国重要文化財の仏像12体を抱える兵庫県丹波市氷上町の古刹、「達身寺(たっしんじ)」。このお寺は今も解けない多くの謎を秘めている。本尊級の仏像がいくつもあり、兜跋(とばつ)毘沙門天は16体も納められていることや、明らかに未完成と分かる仏像が納められていることなどが一例で、その由来の謎が人々をひきつけている。
平安・鎌倉期の仏像約80体残る
達身寺は、本尊阿弥陀如来坐像をはじめ、約80体の仏像を有し、破片に至るまで全て国、県、市の文化財指定を受けている。平安前期(弘仁期)から鎌倉初期にかけての約400年間に制作されたものが多く、寺の起こりは1000年以上昔と推察されている。
寺伝によると、織田信長の命を受けた明智光秀による丹波攻めの際、反信長勢力の僧兵を抱えていた達身寺が攻められそうになり、仏像群を守ろうと寺から運び出したという。
時は流れ、元禄8(1695)年。村に疫病が流行り、大勢の人が亡くなった。占い師が「仏さんを粗末にしているせいだ」と告げたため、谷に放置されていた仏像を集めて丁寧におまつりし直したのだそうだ。
山の中にあった達身(たるみ)堂と呼ばれていたお堂もふもとに降ろして修復。20年近くは村人でおまつりしていたが、正徳2(1712)年、近くの円通寺から住職を迎え、禅宗・曹洞宗の寺「達身寺」として火を灯すことになった。
「丹波仏師」がいた工房だった?快慶もゆかり?
しかし、数十年ほど前から、寺の由来についてある郷土史家が別の説を唱え始めた。「かつて多くの僧兵を抱えていた大寺院があったのではなく、仏像を造る工房があったのではないか」―という説である。
「丹波仏師」と呼ばれる人々が歴史上にいたことは分かっているが、拠点などは分かっていない。仮に、達身寺がその中心工房であったとすれば、「未完成の仏」「複数の本尊仏」、これらの謎もつじつまが合う。16体もの兜跋毘沙門天や2体ずつある薬師如来像、阿弥陀如来像なども、どこかの寺へ納めるはずの仏像だったのだろうか。
奈良・東大寺南大門金剛力士像の作者の一人、快慶は、古文書に「丹波講師快慶」と記している。「丹波仏師、もしくは丹波の地とつながりの深い仏師」を意味すると考えられ、鎌倉時代の名高い仏師、快慶が達身寺の工房出身という可能性もある。しかし残念なことに達身寺には古文書が残っていないため、はっきりしたことは何一つ分からない。歴史ロマンの事実を知るは、仏さまのみ―。