兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡宮(かいばらはちまんぐう)の境内にある「厄除け開運・難逃れの鐘」。この鐘自身が再三の危機を乗り越えてきた数奇な鐘で、ご利益を求める多くの参拝客に親しまれている。
もとは別の寺のために鋳造
釣鐘には「丹波国氷上郡高山寺(こうさんじ) 康應元」の銘があり、もともとは、1389年(康応元)、同市氷上町にある高山寺に納めるために鋳造されたようだ。銘は反対側にもう1つあり、「天文12年(1543)」の年号、2人の女性の名前とともに「奉寄進鐘事」と記されている。
つまり、一度はつくられておきながら、154年もの間、空白期間がある。柏原八幡宮の千種正裕宮司は、「いずこかにあった釣鐘を、この女性らが高山寺に再び寄進したのではないか。この間に、釣鐘にとっては最初の危機があったと考えられる」と話す。
大砲にされる前に救われる
戦国時代の天正年間(1573―1592年)には、大砲にされそうになったところを免れた。豊臣秀吉が大砲鋳造のために氷上郡内の釣鐘を集め、この釣鐘も対象となったが、釣鐘を見た柏原八幡宮社僧の澄運が同神社への寄付を願ったため、壊されずに済んでいる。
1595年(文禄4)に書かれた「柏原八幡神社造営記録」には、「推鐘秀吉公御内石河木兵衛寄進也」とあり、その後、秀吉家臣の石河木兵衛が同神社に寄進したとみられる。
神仏分離令で棄却対象に
神仏分離令が出された明治時代にも危機があった。当時、神社境内あった寺院は立ち退きを迫られ、仏教関係は切り離しを求められたが、釣鐘は「寺の梵鐘(ぼんしょう)ではなく、時間を知らせるためのものだ」として、場所を本殿前から移して神社に残すことができた。
光秀が軍鐘に使った?
このほかにも、織田信長の命を受けて丹波攻めを行った明智光秀が軍鐘として使っていたと書かれた資料があったり、幕末にも大砲鋳造のために柏原藩内の釣鐘が集められたり、太平洋戦争時下には金属供出の危機があったりと、度重なる荒波をくぐり抜けて今に至っている。
北近畿一の厄除大祭
鐘を打つ撞木(しゅもく)が当たる撞座(つきざ)は、摩滅しており、「いかに多くの人が撞いてきた鐘かが分かる」と千種宮司。釣鐘堂の看板には、「願い事を込めて心静かに3回鳴らせば、難を逃れ、福を授かる」とある。
北近畿一ともいわれる伝統の厄除大祭が、2月17、18日に同神社周辺で予定されており、今年も多くの参拝客が鐘を鳴らすことだろう。