17歳で夫を亡くし、仏門に
織田家が代々藩主を務めた丹波国氷上郡柏原藩の城下町であった兵庫県丹波市柏原町。同藩で織田信長の血を引く最後の姫君となった「織田鶴姫」は、聡明で容姿端麗、非の打ち所のないような武家女性であったと伝わる。江戸から明治までを生きた姫君は、一体どのような人物だったのだろうか。31日まで城下町一帯でひな人形展「丹波かいばら雛(ひな)めぐり」が行われており、柏原藩陣屋跡では、鶴姫ゆかりの雛人形も展示されている。
柏原藩は、織田信長の実弟、織田信包(のぶかね)を初代藩主として慶長3年(1598)に始まった。しかし、信包の血筋は3代で途絶え、元禄8年(1695)、信長の二男、信雄(のぶかつ)の血を引く信休が大和国(奈良県)の宇陀郡から国替えされ、「後期柏原藩」が再興された。
鶴姫はこの後期柏原藩の6代藩主、織田信古(のぶもと)の一人娘。7代藩主、信貞の養子に入り、嘉永4年(1851)、15歳の時、信敬(のぶたか)を婿に迎えた。
8代藩主となった信敬は、若い身ながら、藩政改革にも取り組み、「柏原藩中興の名君」とうたわれたが、嘉永6年(1853)年にわずか18歳で病死。鶴姫と信敬は仲の良い夫婦だったが、まだ子どもに恵まれておらず、鶴姫はわずか17歳で未亡人となってしまった。
丹波から信長の血筋を絶やしたくないと、周囲は鶴姫に再婚をすすめたが、鶴姫は髪を剃り落として尼になり、再婚をきっぱりと拒んだという。
名も「良性院」と改めた。
鶴姫は、信敬の死後も江戸での生活を続けていたが、参勤交代の制度が見直された翌年の文久3年(1863)、養祖母の養徳院や養母の宝鏡院らと一緒に、柏原藩へ移った。27歳の時だった。
慎み深い人柄で美人
鶴姫の日常生活は、信敬の考え方を受け継いだように質素で、人柄も慎み深く、誰一人として取り乱した姿など見た者はいなかった。養母、養祖母によく仕え、病気の時には帯も解かずにつきっきりで看病したという。また養蚕、裁縫も自ら労をいとわず行った。小柄ながら、絵から抜け出したような美人で、その上賢く、誰からも慕われたと伝わる。
生まれながらの才能に信敬の感化もあって、田村看山について学問を積み、信敬が重用した儒学者、小島省斎の講義を聴くことを楽しみにしていた。趣味の幅も広く、書画はもちろん、琴や三味線に至るまでたしなんでいたという。和歌も堪能で、たくさんの作が残されている。
ゆかりの人形を陣屋跡で展示
織田分家の津田朝蔵さんの子、長敦(ながあつ)さん(84)=同市柏原町柏原=は、父からよく鶴姫の話を聞いていたという。鶴姫のことは「良性院(りょうしょういん)さん」と呼び、かわいがられていた。市内の本郷川へ魚とりのお供について行ったことや、お正月に駄賃をもらいに行っていたことを話していたそうだ。
開催中の「雛めぐり」で、陣屋跡に展示されている鶴姫ゆかりの「御所人形」と「三ツ折(みつおれ)人形」は、朝蔵さんが鶴姫からもらい、津田家で大事にしてきたものという。
遺産売却、小学校と旧藩士に贈る
鶴姫は、明治29年(1896)、60歳でこの世を去った。遺言により、鶴姫の所有になっていたものはすべて売却され、代金は地元の崇広小学校と旧藩士に全額贈られたという。鶴姫の位牌は、柏原町の本覚寺にまつられている。また、明治30年(1897)、柏原の建勲神社内に、津田要が「夫人織田氏碑」を建立し、その貞婦ぶりを後世に伝えている。
信長の血を引く最後の姫君として、葛藤をかかえながらも、自分の意思を貫いた鶴姫。当時の婦人のたしなみや心得をすべてというほど体現し、学問や趣味にも通じた姿は、武家女性としての凛とした強さと清々しさにあふれ、多くの人々をひきつけたのだろう。