南部杜氏、越後杜氏と並び、日本酒の歴史を支えてきた「三大杜氏」の一つ、丹波杜氏。丹波杜氏のふるさとである兵庫県丹波篠山市に伝わる民謡「デカンショ節」に「灘のお酒はどなたが造る おらが自慢の丹波杜氏」とうたわれているように、兵庫・灘五郷の地を一大生産地に押し上げた。そんな丹波杜氏から「恩人」として今も慕われている人物がいる。江戸時代、命を賭けて酒造出稼ぎ禁止令を解くように藩主に直訴した市原清兵衛だ。きょう10月1日は「日本酒の日」。
清兵衛は、今の丹波篠山市今田町市原の生まれ。いつの生まれか明らかでないが、1800年(寛政12年)12月、江戸に行き、篠山藩主の青山忠裕に「冬場の酒造出稼ぎを認めてほしい」と直訴したことで知られている。
当時の篠山藩は、ことのほか厳しく年貢を取り立てていた。このため、農民にとって冬の間、伊丹や灘方面に酒造りの出稼ぎに行き、収入を得ることは生きるための手段だった。しかし、篠山藩は、出稼ぎに出ると農業をおろそかにするとして出稼ぎの禁止令を出した。
清兵衛は、病気がちの妻と3人の子どもを抱えて苦しい生活を送っていた。出稼ぎができなくなると、暮らしは成り立たなかった。こうした事情は清兵衛ひとりではなく、ほかの農民も同じ。「出稼ぎを認めてほしい」という切実な願いから、農民たちは一揆を起こした。
あるとき、篠山城に近い監物橋河原におびただしい数の農民が集まって、大騒動を起こそうとしているとき、清兵衛が立ち上がって、「殿様はご名君だ。実情をお話したら、きっとわかってくださる」と言い、騒動をおさめたと言われる。殿様とは、青山忠裕。篠山藩主であると同時に、幕府の要職に就いていた人物だった。
清兵衛は幾度となく篠山藩に酒造出稼ぎを認めてもらうよう願い出たが、藩としては、藩令として出したものを簡単にひるがえすはずはなかった。そこで清兵衛は覚悟を決め、息子の佐七とともに藩主の忠裕に訴えるための訴状を懐に、江戸に向かった。
江戸に入った清兵衛は、駕籠に乗って城に登ろうとしていた忠裕に近づいた。幸いにして江戸屋敷に通された清兵衛は、農民たちがどれほど苦しい生活を強いられているかを忠裕に訴えた。
お供の侍が「頭(ず)が高い」と叱責すると、「低くすると、声が通りまへん」と答えたといわれる。
清兵衛の堂々とした態度に感心するとともに、事情を知った忠裕は大変驚き、出稼ぎの禁止令を解いた。しかし、身分制度が厳しかった時代、直訴は許されない行動だった。このため清兵衛は捕らえられ、およそ10年間、牢に放り込まれた。
ところが、おもしろいことに清兵衛は罪人とは思えないような特別待遇を受けた。病気になるとすぐに医者がやって来て、寒くなると、冬着が支給され、火鉢を差し入れられたという。牢を出るとき、藩は村の大庄屋に清兵衛家族の面倒をみるようにと命じた。
忠裕は、清兵衛の直訴があってから、庶民の声を聞く必要を感じたのか、目安箱を設けて庶民からの投書を受け付けたと言われる。
直訴が功を奏し、酒造出稼ぎに行く農民が増えた。ある村では、1767年(明和4年)、37人だった酒造出稼ぎが、直訴から13年後の1813年(文化10年)には111人と3倍にふくれ上がった。
牢を出た後も清兵衛の身にはいろいろなことがあったが、最後は兵庫県の伊丹に移り住んだと言われている。
丹波杜氏の恩人である清兵衛を慕い、生まれ故郷の今田町市原には「義民 市原清兵衛 生誕の地」と刻まれた石碑が立っているほか、篠山城跡三の丸にも清兵衛をたたえる石碑が立っており、毎年、酒造りのシーズンを迎えると、丹波杜氏がそろってその石碑にお参りし、今年もいい酒ができるように祈っている。